ヤボクの渡し

創世記32章23~33節
 ヤコブさんが一晩中、神さまと取っ組み合いの格闘をしたというお話しです。この時、ヤコブさんは家族全員を連れて生まれ故郷に帰るために旅を続けて野宿をしておりましたがある晩、ヤコブさんは起きると二人の妻と二人の側女、それに11人の子どもを連れてヤボクという川を渡りました。そして全員が川を渡り終え、持ち物を家族に手渡すとその場所に一人残ったのです。まだ真夜中です。辺りは真っ暗闇です。すると何者かがヤコブさんに現れたので一晩中ヤコブさんは取っ組み合いの格闘をしたのです。実は、ヤコブさんが格闘したのは神さまでした。神さまと格闘するというのは何か不思議な感じがします。神さまと格闘するということは一体どういうことなんだろうか、そう思います。何故ヤコブさんは神さまと格闘したのでしょうか。
 実は、この時ヤコブさんは大きな恐れと不安の中に置かれていたのです。ヤコブさんが向かっていた故郷には、エサウさんという双子のお兄さんがいたのですが、ヤコブさんはエサウさんが受け継ぐはずの祝福を、騙して横取りして、エサウさんから激しい怒りと憎悪、そして殺意を抱かれてもう一緒に暮らすことが出来なくなってしまったのです。それでヤコブさんは家を出てたった一人で遠い異国の地へ逃れたのです。そういう出来事があってから随分年月が経ちました。ヤコブさんは神さまから「あなたの生まれ故郷へ帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える」と命じられたので、故郷に向かって帰ることにしたのです。でもヤコブさんの心はとても暗かったはずです。恐ろしかったのです。お兄さんのエサウさんから命を狙われるほどの怒りを買ってしまったのです。そんな自分が今更のこのこと家に帰ってきて、本当にいいんだろうか。大丈夫だろうか。お兄さんは決して許してはくれないだろう。仕返しをされてひどい目に遭わされて、遂には殺されてしまうのではないか、そういう恐れを伴う不安がヤコブさんにはあったのです。私たちにもヤコブさんと同じ気持ちを抱くことがあると思います。自分が犯してしまった失敗や大きな過ちを後悔する。でもどうすることも出来ず、何か自分が見捨てられてしまったかのような孤独を覚えることがあります。何故こうなってしまったのか、自分の至らなさ、醜さ、倣慢さを悔いるのですが、でももはや取り返しがつかない。または思いもしなかった出来事に遭遇することがあるでしょう。試練や苦難に私たちは出会うことがあります。病気にかかる。入院生活をしなければならない。年齢を重ね、心身に色々と弱さが出てくる。それから自分や家族の死と否が応でも向き合わなければならないことがある。真っ暗闇の中でたった一人で後に残ったヤコブさんのように孤独を感じ、自分は見捨てられたのではないかと思うしかないそういう厳しい現実の中に立たされることがあるのです。
 でもそういう私たちに神さまは御自分の方から近づいてこられるのです。そしてヤコブさんが神さまと一晩中格闘したというのは、共におられるその神さまに必死にしがみついて、そして神さまに祈り続けたということです。何故、私たちは祈るのでしょうか。それはその祈りを必ず聞いて下さるお方が私たちのすぐ近くにおられるからです。そのことをヤコブさんは忘れなかったのです。だから神さまと格闘するように必死に祈り続けたのです。そのヤコブさんに勝てないとお思いになられた神さまが、ヤコブさんの腿の関節を打たれたという行為は、一見すると解せないですね。神さまが人間に負けてしまわれるのか、神さまは人間よりも力が弱いのか、そう思いたくなりますが、違うのです。ヤコブさんの祈りが神さまに届いたのです。神さまがその祈りを聞いて下さったのです。神さまがこう言いました。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」。しかしヤコブさんはこう答えました。「いいえ。祝福してくださるまでは離しません」。私はどんなことがあってもあなたを離しません。私は弱い人間でそして過ちの多い、従って醜く、罪深い者です。だから神さま、あなたに助けて頂かなければ、憐れんで頂き、赦して頂かなければ立ち上がることの出来ない惨めな人間です。ですからどうか私をお見捨てにならないで下さい。あなたから祝福を頂くまで決してあなたを離しません。そのようにヤコブさんは一晩中、神さまに祈り続けた。そのようにして神さまと格闘したのです。
 すると、ヤコブさんが神さまに必死に祈って求めた「祝福」とは何でしょうか。祝福というのは神さまが私たちに与えて下さる恵みでありますが、ただ神さまから与えられる恵みではありません。神さまが一緒に歩んで下さることを通して与えられる恵みなのです。我々の生活は順調な時ばかりではありません。山あり谷ありでしょう。私たちの生活・人生というのは。苦難の時、試練の時、ヤコブさんのように大きな過ちを犯し、誰からも見捨てられてしまったかのような孤独の時もある。でも、神さまは私たちと共にいて、私たちを祝福して下さる。必ず神さまが助けで下さり支えて下さり、道を開いて下さる。神さまはヤコブさんに、もうこれからはあなたはヤコブではなくて、「イスラエル」と呼ばれるであろうと告げられましたが、イスラエルというのは神の民という意味です。神の助け、力によって生きる人のことです。ヤコブさんは神さまと出会い、神さまに祈りが聞かれ、神さまが共に生きて下さることを信じて生きる人間に変えられたのです。自分にではなくて、いつでもどのようなときも神さまに希望を置いて、神さまに助けられ支えられ導いて生きていくことを信じる人間として歩むようになったのです。この後、ヤコブさんはお兄さんのエサウさんと再会して仲直りをして和解するんですが、ヤコブさんはただ神さまを信じ、神さまに助けて導かれてエサウの所に出かけたのです。そのヤコブさんを神さまは祝福して下さった。もう駄目だと思うしかなかった兄弟同士の和解が成立したのですね。ですから、祝福というのは神さまがどのようなときも共におられる。助けて下さり支えて下さり希望をお与えになる、そのことを信じて生きるそういう命であります。
 ヤコブさんが出会い、祈った神さまは今も私たちのすぐ側におられます。「わたしは顔と顔とを遭わせて神を見た」とヤコブさんは言いましたが、私たちには神さまのお姿は見えません。でも神さまは、イエス・キリストを通して御自身を私たちに顕して下さいました。神さまは御自分の大切な独り子を私たちにお与えになる。しかも罪なき独り子を私たち罪人を赦して贖うために、十字架にかけて犠牲とすることによって、御自身を顕して下さったのです。神が共に生きておられることを信じない、頑固でいつまでも自分の思いで突き進んでいこうとするそういう私たちに神さまは、私はあなたを赦し、あなたを購い救った。私は必ずあなたと一緒にいる。だから私の所に戻ってきなさい。そう呼んでおられるのです。キリストは三日の後に甦られました。キリストは今日も明日も変わらないお方として生きておられるのです。死に勝利され復活されたお方が私たちをとらえて下さる。そして私たちの祈りを神さまに取り次いで下さる。イエス・キリストの名によって祈る時、最も近くに神はおられるのです。