教会学校のページ(NEW)
教会学校では、お母さんやお父さんに連れられた幼児のお友達から、小学生、中学生、高校生といろいろな年代の人たちが集まります。みんな神さまに導かれて、教会に集った仲間です。
エスさまは、子どもが大好きす。このページをご覧になった方は、どうぞ一度いらしてください。私は、子どもじゃないから、ダメなのでは…そんな心配はいりません。子どもと大人が入り混じって、神さまについて学んでいるところが、教会学校です。
「人の創造」
創世記 2章15~25節

今日は、「神さまがつくられたわたしたち人間」のお話です。神さまはこの世の全てをつくられた最後に人間をおつくりになった、と聖書の一番初めにある「創世記」に書かれています。
人はつくられたといっても、ぼくは、お母さんから生まれたんだよ、そう皆さんは答えるに違いありません。でも、お母さんに聞いてみてください。お母さんがぼくをつくったの?確かに皆さんもわたしも、お母さんのお腹の中で育ち、生まれてきました。それは間違いありません。じゃあ、僕の心臓をどうやって動くようにしてくれたの?どうやって目が見えるようにしてくれたの?と聞くと、お母さんもきっと困ってしまうでしょう。なぜなら、さすがのお母さんも、機械を組み立てるように部品をそろえて一つ一つ組み立ててみなさんをつくっていったわけではないからです。お母さんのお腹の中で、「勝手に」と言ったらいい方がよくないかもしれません。「自然に」と言った方がいいかもしれませんね。わたしには、正確に説明することはできませんが、私たちに組み込まれた遺伝子やDNAの働きによって、人間の体が形作られていくと学校では習います。でも、お腹にいる間に私たちの体や心が知らないうちにつくられていく過程には、本当に驚くほかありません。当たり前に心臓が動く、当たり前に目が見えるという当たり前の奥にあるもの。それはだれがつくったの?と改めて問われると、私は「神さまがつくられたものだよ」と答えるほかありません。
教会では、聖書に書かれているみ言葉にもとづいて、人の誕生についても考えています。考えるというより信じていると言った方が適切でしょう。もちろんそれには非科学的である、まちがいであるという意見もあるでしょうが、聖書のみ言葉と科学でいう知識とは次元の違うものとして考えています。科学では説明しきれないものが世の中には、たくさんあるのです。例えば、私は、今から65年前に松山市で男として生まれましたが、どうしてその時にそこで生まれたか、なぜ男に生まれたのか、それは誰にも分かりません。私が、これから先、何歳まで生きていて、死んだあとはどうなるのか、それも科学では説明しきれないものでしょう。それらを神さまの御業と呼んで、神さまが計画されて、私たち一人一人に備えてくださったものと考えています。
神さまがつくられたものと考えているのは、人間だけではありません。自然の風景、野の花、木々の緑、身の周りにいる生き物、それらすべては神さまがつくられたものと考えています。わたしが強くそう思うのは、たとえば、この花は「ナンジャモンジャ」という木に咲いた花ですが、どうしてこんな不思議な切り絵のような花があるのだろう。どうしてこのようなきれいな白色なのだろう。そんな風に考えていると、やっぱり神さまのつくられた作品に違いないと考えてしまうのは、きっとわたしだけではないと思います。
神さまは、それらのものをつくられ、最後に人間をおつくりになりました。その時、神さまは、「最後に、今までつくったいろいろな作品を大切に守る役目のものをつくろう。わしとよく似た姿をしたものにしよう。」と言われ、みなさんが泥粘土でお団子を作る時のように、心を込めて土の塵を集めて、熱心に人間をつくられました。そしてその人間の鼻に神さまが息を吹き込むと、あら不思議。土を集めてつくった泥人形が、命をもつ人になったというのです。
神さまは、それを見て、とても満足されました。そして、エデンの園と言う楽園にすまわせることにしたのです。そこは、すばらしい自然のところで、食べ物が周りにいっぱいあり、いろいろな生き物と一緒に、不自由なく暮らすことができるところでした。でも、神さまは一つだけ禁止事項(してはいけないこと)を人に言いつけました。それは、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。」というものでした。たくさんのおいしい実を実らせるエデンの園の真ん中にその木はありましたが、いかにもおいしそうな実を付けていたと聖書には書かれています。彼はそこで暮らし、神さまがつくられた生き物たちと出会い、その一つ一つに名前を付けて行きました。しかし、彼を本当に助ける生き物に出会うことはできなかったのです。そこで神さまは、「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者をつくろう。」そう言われて、彼が寝ている間に、あばらの骨の一部を抜き取って、それで女の人をつくり上げたそうです。彼は、彼女を見て、とても喜びました。そして彼女を「これをこそイシャ―(女)と呼ぼう。イシュ(男)から取られたものだから」といって、二人は仲よく協力して暮らしました。危険が迫った時には、お互いが守り合ったり、手が届かない時には、踏み台になったり、お互いのよさを生かし合って、神さまのお考え通りに、助け合う存在になったのです。そんな彼らは、神さまが備えてくださった自然や生き物の恵みに心から感謝して、毎日とても幸せに生活を続けていたに違いありません。
私たち人間は、そのように神さまがつくってくださった最高傑作なのです。直島伝道所の福田牧師がそのような題を付けられていましたので紹介しました。ところで、最高傑作としてつくられた人間ですが、神さまのどんな思いが込められているのでしょうか。それを最後に考えてみたいと思います。私には、二つの思いが込められているように思います。一つは、すばらしい自然や生き物、それらの神さまの傑作を「支配させよう」という言葉です。支配させるというのは、好き勝手に使ってよいというのではなくて、神さまの代わりに動物や植物の世話を任されているということです。大事に守っていかなければなりません。
そして、もう一つは、助け合うということです。神さまのつくられた素晴らしい世界を守り続けていくためには、人間同士が愛し合うこと、助け合うことが絶対に必要です。人間は、どんどん増え続け、今では80億人を突破したと言われています。そんな人間の中には、衣食住の生活習慣やものの考え方、信じている宗教など、本当に多様な違いがあります。その違いには、正解や不正解といった区別はなく、どの人も尊重されるべき存在であるはずです。なぜなら、どの人も神さまがつくられたものだからです。だから私たちは、神さまから大きな宿題を与えられていると考えるとよいでしょう。それが、愛し合いなさい、助け合いなさいと言うことです。神さまの似姿につくられた私たち人間は、理性や知性を与えられています。それを使って、何でもできる。自由であると考えて好き勝手なことをしてしまいがちです。しかし、それでは神さまのお考え(御心)とは全くかけ離れたものになってしまいます。来週の礼拝で学びますが、神さまは、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。」という禁止事項を示されました。それは神さまの願いを実現するために人間が守らなければならない約束だったのです。詳しくは来週お話を聞きますが、人間は、その約束を破って、知識の木から実をとって食べてしまいます。そして、善だけではなく、悪を知るものとなってしまいました。その悪が、戦争や自然破壊、差別や犯罪などの根をつくり、悲惨な人間の歴史の元となっています。神さまは約束を守る、相手を思いやる、互いに愛し合うということを願いを込めて私たち人間をつくり、この地球という環境を大切に守り抜く責任を与えてくださっています。神さまが私たち人間に込められている願いについて、私たち人間は今一度立ち止まって、深く考えてみる必要を感じます。
最後に祈ります。ご在天のイエスキリストの父なる神さま。今朝は神さまが私たち人間を心を込めて大切につくってくださったことを知りました。人間に込められている神さまの愛に深く感謝し、お互いが助け合い愛し合って、かけがえのない世界を命を守っていける存在となれますように私たち一人一人をお導きください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン