説教(2026年1月月報より)

「求めなさい、そうすれば与えられる」

寺島謙牧師

マタイによる福音書 7章7~12節 

 新しい年を迎えました。年の初めのこの時,私達はこの年に向け,様々な願いや希望を持ちます。それらは自分中心なものになりがちです。しかし私達の信じる唯一の創り主なる天の父なる神は、「私が全てに責任をもつ。求めなさい。与えられるから。」と告げ給います。ルカによる福音書11章にも,関連深い記述があります。主は弟子達に何をどう祈るべきかを教えられた時,まず主の祈りを教えられた後,パンを夜中に借りにきた隣人のたとえばなしを話されました。一見、非常識なこの友人に対してさえ,その熱意と執拗さによって求めに応じるだろうというのです。少し意外に感じる話ですが,主イエスは、祈りは真剣で執拗でなければならないことを,教えられたのです。そして,祈りを無駄だと考えず,勇気を出して祈り続けるべきことを教えられたのです。神は求める者に必ずよいもの下さる(魚の代りに蛇,パンの代りに石などでなく)と続けられました。
 さて,ここで非常に重要な事が出てきます。「よいもの」とは何でしょうか。私達が真剣に祈り求める時、神は聖霊を与えてそれに応えて下さる。神が与えて下さる「よいもの」とは聖霊です。ルカによる福音書11章13節には,神は求める者に「聖霊」を与えて下さる,と明確に書かれています。私達が過ごとの礼拝で共に祈る「主の祈り」の中にこの言葉は出て来ませんが,「主の祈り」は聖霊を祈り求める祈りと,根本的には,同じものであることは確かです。主が特にこう言われたのは、祈ることを主に教えて下さい,と願い出た弟子達は、「何を」祈り求めるべきかを,よく知らなかったからだと思われます。
 実に聖霊こそ私達の信仰の礎です。人の力では諮り知れない神の御力。私達の周辺にも,まれに存在する善き人一深く広い知識,物分りがよく,人格的にもすぐれ,判断力も確かな人-こういう人が必ずしも信仰に入れるとは限りません。反対に,これらの美徳に欠ける人の中にも,イエスを「主」と呼べる人がいます。聖霊の選びとしか考えられません。使徒パウロが断言した通りです。-「だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし,また,聖霊によらなければ,だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」・(コリントの信徒への手紙Ⅰ,12章3節。)-主イエスの語られた通り,私達一人一人を愛して下さる神は,私達が必要として祈り求める事を直接聞いて下さる事が多くあります。しかし聞いて下さらないと思われることも,時にはあります。しかしそのような時も,祈りを吟味して正しいと信じる時は,諦めずに粘り強く祈り続ける事が大切だということを,今朝の聖書は述べています。祈る事の多い個人生活,教会の働き,世界の動き。心して,この一年を祈りつつ送りたい,と思います。