愛はすべてを完成させる絆

コロサイの信徒への手紙3:12~17
 私たちは、こうして日曜日ごとに教会に集まり、神さまを礼拝しているのですが、礼拝を通して私たちは神さまの子どもとし成長していくのです。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と書かれていましたが、これらは皆私たちが色々な人と生活したり一緒に生きていく上で大切なものです。神さまはこれらのものを私たちにお与えになられるのです。そしてどんな人とも喜んで生活して、その人のために生きることのできるそういう人間に神さまは成長させて下さるのです。それから責めるべきことがあってもお互いに赦し合うことの出来る力をお与えになられるのです。私たちはなかなか人を赦すことができませんね。自分にひどいことを言った人、意地悪をする人、困らせたり苦しめたり、悲しませるようなことをする人はならなおさらのことです。絶対に赦さないと思うでしょう。でも互いに赦し合うことが出来なかったら、私たちは一緒に生きていくことは出来ませんね。でも聖書は、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と教えています。神さまに背いて敵対していた私たち罪人を神さまが赦して下さったように、あなたがたも赦し合いなさいというのです。神さまは礼拝を通して私たちに赦す力をお与えになるのです。
 私が中学生の時です。学校にどうしても赦せないと思う不良が沢山いました。刃向かうと何をされるか分からないので、ぐっと我慢していました。怒りがいつも自分の心の中にありました。でも日曜日教会で礼拝に出席し、中学科の先生の説教を聴くといらいらした気持ちが不思議と穏やかになり、赦そうという気持ちになり、また学校へ行くことが出来ました。でも月曜日、火曜日と過ぎて水曜日頃には怒り心頭になっているのです。それでまた日曜日礼拝に出席して癒される。神さまはやはり日曜日に礼拝を通して働いて下さっておられるのだと思いました。
 そして神さまは「愛を身に着けなさい」と言われます。人を赦すことは難しい。でもそれ以上に難しいことは愛するということではないでしょうか。愛するというのは無条件でその相手を赦して受け入れること、その人と一緒に生きていくということ。愛は私たち人間同士の営み、共に生きるすべてを完成させる絆です。実は、私たちは皆、そのような愛に生かされているのです。ヨハネによる福音書にこういう言葉が書いてあります。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」。神さまはその独り子であるイエス・キリストをお与えになられたほどに私たちを愛して下さったというのです。
 教会は、この神さまの愛を知る所です。神さまが私たちと共に生きて下さる所、それが教会です。神さまのお姿を見ることは出来ません。でもイエスさまの十字架によって私たちは神さまとの間に平和を与えられているのです。いつでもどのようなときも神さまが私たちと共におられるのです。苦しみの時も悲しみの時も、病気の時も悩みの時も、私たちのことを赦して愛して下さっておられる神さまが一緒に歩んで下さる。その神さまの前に私たちを導き、礼拝を捧げる幸いをお与えになられているのがイエスさまです。イエスさまを信じるとき、神さまは必ず私たちの側におられます。そして私たちに生きる勇気と希望をお与えになられるのです。