天にましますわれらの父よ

 先ほど、皆さんと一緒に主の祈りをいたしました。その最初のところで「天にまします、われらの父よ」と祈りました。
主の祈りを私たちは誰に向かって祈っているかというと、それは天におられる父なる神さまに対して祈っているのですね。神さまというのは、私たちがこうして生活している世界を造られた神さまです。そして私たちにこうして命をお与えになってこれを生かしておられる神さまです。その神さまは天におられるお方ですから、私たちの目で確認することは出来ません。私たちには見えないお方です。でもいつもちゃんと天から私たちのことを見守っておられるのですね。その神さまのことを私たちは「天にまします、われらの父よ」と呼んでお祈りすることが出来るのですね。神さまは私たちのお父さんなんです。神さまがお父さんなら、私たちは、神さまの大切な子どもですね。ならば神さまはどのようなことがあっても私たちのことをお忘れになられない。たとえ私たちが神さまのことを忘れてしまうようなことがあったとしても、神さまは私たちのことを決して忘れたり、見捨ててしまわれるようなことはないのですね。皆さん、病気になったとき、色々と心配なことや不安なこと、生活しているとそういうことが沢山あるでしょう。これから大きくなっていくと皆さん、一人で生きていかなければなりません。でも是非、心に覚えておいて下さい。神さまは必ず皆さんと共にいて、私たちのお祈りを聞いて下さる。だから、主の祈りによって、「天にまします、われらの父よ」そう呼んで神さまに祈ってご覧なさいと教えているのです。
 こうして、私たちは神さまのことを「天のお父さま、お父さん」と呼んでお祈りすることが出来るのですが、でもこれは決して当たり前なことではなかったのです。私たちは神さまのことをすっかり忘れてしまっていたのです。神さまを忘れてしまうとき、神さまから離れてしまうとき、私たちは実は生きていくことが出来ないのです。「絶望」という言葉があります。世の中には希望を見失ってしまう悲しいことや辛いことが沢山ありますが、本当の絶望は神さまを見失ってしまうことなんです。神さまはいつでもどのようなときも私たちと一緒におられる。私たちの命を生かし、一緒に歩んでおられるのですね。苦しいときも悲しいときも、上手くいかないときも神さまはちやんと私たちを支えておられる。命を生かして道を備えてそこを歩ませようと働いておられる。神さまのお姿は見えませんが、私たちは神さまの大きな手の中に守られているのです。その神さまを忘れたら、本当に希望がないですね。このように神さまを忘れたり、見失ってしまうことを聖書は「罪」と言うのです。私たち人間は罪に囚われて、神さまが天の父である、私たちのお父さんであることを忘れておりました。そして私たちが神さまの大切な子であることも見失っていたのです。
 でも、神さまはお忘れになられなかったのですね。私たちを探し出して、そして「天にまします、われらの父よ」と顔を上げて祈ることが出来るようにするために、イエスさまを私たちの所にお送り下さったのです。そして私たちの罪を赦して下さるために、イエスさまをあの十字架につけてその命を持って私たちを贖って下さったのです。贖うというのは、買い戻すという意味です。罪なきイエスさまの命を神さまは支払って、私たちをもう一度神さまの子どもとして受け入れて下さったのです。だから、私たちは、いつでもどのようなときも天に顔を上げて、「天にまします、われらの父よ」とお祈りすることが出来るのですね。
 今日の聖書の終わりに、神さまが「アツバ、父よ」と神さまに叫ぶことの出来る「霊」を私たちの心に送って下さったと書いてありました。「アッバ」というのは、「お父さん、パパ」という意味です。神さまはそのように私のことを呼んでいいと言われたのです。私たちが病気の時も、心配なときも、恐れや不安があるときも、いつでも神さまのことをお父さん、父なる神さまと呼んで祈ることが許されているのです。そのように神さまはいつでも呼んでごらん、お祈りしてご覧なさい、必ず私はその祈りを聞きます。そして必ず必要なものをあなたに与えます。そしてあなたと一緒に人生をいつでも一緒に歩くから、安心しなさいと約束しておられるのです。その神さまの約束が本当であることを、イエスさまの十字架と復活は表しているのです。