「天の父の御心を行う者」
寺島謙牧師
マタイによる福音書 7章21~23節
山上の説教の読解も,終わりに近づいて来ました。主イエスのなさったこの説教は,いずれも私達の身近な生活の中で,信仰に生きる指針を与えられる感銘深いものですが,中には直ぐには納得の行きかねる箇所もあるように思います。本日の聖書箇所もその一つです。23節には「わたしから離れ去れ」と,イエスにふさわしくないと思われる言葉が書かれています。しかし聖書の御言葉は皆,心を鎮め,自分を無にして聴くべきものなのです。
ヤコブの手紙の2章17節に「行いが伴わない信仰は,それだけでは死んだものです。」とあります。私達も及ばずながら伝道のためこ活動し,教会に奉仕をしています。だがそれだけではいけない,と主は言われます。「御名によって預言し,御名によって悪霊を追い出し,御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」という人々の言葉は、主に受け入れられません。何故か?との問いに対する答えは,聖書の至る所に見ることが出来ます。
コリントの信徒への手紙l:13章にはよく知られた,パウロの愛に関する教えが書かれています。3節「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも,誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」この「愛」とは,キリストの事です。キリストに感謝し,全ての恩いをあけ渡す時,神はこれを喜んで下さるのです。
またマルコによる福音書5章25節~34節にある,主イエスの癒しの記事を見ましょう。癒された女に善行は全くありませんでした。ただ主の衣の房にでも触れれば癒される,との全き信仰があるのみでした。この女は「群衆の中に紛れ込み,後ろからイエスの服にふれた。」というのです。こっそりと行ったのです。自分の病が治ることしか考えていなかったでしょう。しかし主イエスの御前に恐る恐る進み出た彼女に,嘘も誇りも全くなかった。ただただ自分の罪を知り,主イエスに身を委ねて癒しを願い求めたのです。主イエスは,これを受け入れ給うたのです。「娘よ,あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず,元気に暮らしなさい。」このような,真の悔い改めと赦しから,逆に,神の喜び給う「行い」が出てくるのです。このように考えると,本日の聖書箇所も,理解出来るのではないでしょうか。
では,そのようにするには,どうしたらよいか。キリストに,繋がっていることです。ヨハネによる福音書15章5節に,「人がわたしにつながっており,わたしもその人につながっていれば,その人は豊かに実を結ぶ。」とあります。心にしっかりと留めておきたい言葉です。