エゼキエル書37章21~28節
今日の聖書は、エゼキエルと呼ばれる預言者によって語られた言葉です。預言者というのは、神さまから遣わされた人のことで、神さまの言葉を人々に知らせ伝える人のことです。
エゼキエルはこの時、バビロニアという大変大きな国で囚われの身となっていました。実は、エゼキエルを含むイスラエルの人々はバビロニアから侵略を受けて祖国であっユダ王国を滅ぼされ、遠い異国の地であるバビロニアに無理矢理連れて来られてしまったのでした。人々はですから、とても悲しい現実の中にありました。住み慣れた改郷を失い、愛する家族からも引き離され、縁もゆかりも無い異国の地で生活せざるを得なくなってしまったのです。全く希望がありませんでした。もう永遠に故郷に戻ることは出来ないと誰もが思っていました。そして何よりも人々にとって絶望的であったのは、自分たちがその神さまから見捨てられてしまった、裁かれ滅ぼされてしまったと思わざるを得なかったことです。
この悲惨な現実は自分たちが神に対して犯した過ち、罪の結果であるということでありました。神さまから今自分たちは罰を受けているのだと思うしかありませんでした。しかしエゼキエルはイスラエルの人々にこう告げます。「わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする」。
神さまはイスラエルの民をこのバビロニアから祖国エルサレムへ必ず連れ帰る。そして一つの国とすることを神さまは約束しておられると、絶望のどん底にあったイスラエルの全ての人々に知らせたのです。かつてイスラエルは、ダビデと呼ばれる偉大な王が治める一つの国に暮らしていたのです。でも王国が分裂して北と南に分かれてしまいました。そして北王国も南王国もバビロニアによって滅ぼされてしまい祖国を失ってしまいました。でも神さまはもう一度一つの国を建ててそこにイスラエルの全ての民を導くと言われたのです。神さまはイスラエルが犯した罪を赦して下さると言われるのです。そのしるしこそ、このバビロニアからの解放であり、祖国の再建でありました。
神さまの約束の言葉を聞いたイスラエルの人々はどんなに喜んだことでしょう。人々は神さまの言葉によって励まされ、慰められました。しかし何よりも人々を力づけたのは、次の言葉でありました。27節です。「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。これは、イスラエルの人々と神さまとが一つとされるという約束です。神さまとイスラエルの民が結び合わされて、一つにされるというのです。どのようなことがあっても神はイスラエルと離れることがない。神さまがしっかりと捉えて下さる。この神さまの救いの約束が、バビロニアという苦難の直中に置かれていたイスラエルの人々を本当に力づけ、明日を生きる確かな希望となったのです。
この神さまの約束は、イスラエルの人々だけでなく私たちにも実現しました。神さまはイエスさまを私たちにお与えになられました。私たちと等しい人間の姿でイエスさまを私たちの所にお送り下さいました。そしてこの地上で私たちが経験する苦しみや悲しみ、痛み、その全部をイエスさまもその身に知って下さったのです。そのイエスさまを神さまは遂に私たちの罪を赦して下さるために、あの十字架にかけて私たちの神となられました。私たちには神さまのお姿を目で見ることは出来ません。でも神さまはイエスさまを確かにお与えになって、私たちといつでもどのようなときも一緒におられることを約束されたのです。
「インマヌエル」という聖書の言葉があります。これは、神は私たちと共におられるという意味ですが、この神さまの言葉がイエス・キリストによって実現したのです。この約束を信じて生きる時、私たちは希望を失うことなく歩むことが出来ます。苦しいことや悲しいこと、上手くいかないことや大きな壁にぶつかることもあります。でも神さまは必ず共におられます。そして導いて下さいます。その約束を私たちは日曜日ごとに教会に来て、聖書を通して確認するのです。あのイスラエルの人々はバビロンの地からエルサレムへ帰ることが出来ました。私はあなたがたと共にいると約束された神さまが本当にイスラエルの人々と共に歩まれ導かれたのです。
神さまは同じように私たちと共に歩んでおられます。十字架の上で死なれたイエスさまを神さまは甦らせられました。神さまの約束は死の力によっても無くならない、確かな約束なのです。どうか神さまの約束を信じて与えられた命を生きたいと思います。