バベルの塔とペンテコステ

創世記11章1~9節

 今日は、聖霊降臨日で、キリスト教3大祭りのひとつです。教会の誕生日ともいわれ、イエスさまが甦ってから50日目に起こった出来事と言うことで、ペンテコステと呼ばれています。

 ノアの箱舟で学んだ出来事の後、人間はどんどん増えていきました。町に塔を建てて有名になろう。きっと神さまに近づくはず。手も届くはず。人間は自分たちも神さまと同じようになれると思っていました。

 人間は、もともとはみんな同じ言葉を話していました。一つの言葉を介して、意思疎通ができていたのです。自分たちの知恵や技能は神さまから与えられていることを忘れ、自分たちも神さまと同じようになれるという傲慢な思いをもつようになっていたのです。神さまのみ名よりも自分たちの功績や名があがめられることを望むことは、神さまに背くことに他なりません。

 神さまは、これ以上人間が傲慢にならないように、言葉を別々のものにお分けになりました。そのため、意思疎通ができなくなり、彼らは塔の建設ができなくなりました。そして、それぞれの地に散っていったのです。神さまは、彼ら人間の悪いたくらみを打ち砕かれたのでした。こうして、混乱の世の中になりましたが、神さまは、罪ある人間を赦すために、イエスさまを遣わされました。十字架にかかったイエスさまが復活されて50日目のことです。弟子たちが集まって祈っていると、激しい風が吹き、炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。すると、弟子たちは、聖霊が語らせるままにイエスさまのことを、世界中のいろいろな言葉で語り出したのです。世界中からエルサレムに集まっていた人々は、自分たちの故郷の言葉で、弟子たちがイエスさまのことを語り出したので驚きましたが、その言葉は、ふるさとの言葉であるために心に届いたのです。一日で3000人余りの人が洗礼を受け、そこから教会が始まりました。そこで、ペンテコステは、教会の誕生日とも言われています。

 私たちの城東教会もその出来事から生まれたのです。私たちは、今週もこのように集められ、礼拝を守っていますが、これは当たり前のことではありません。大人も子供も集められていること、そして私たち一人一人が生かされていること、これらは、全て神さまの導き、聖霊の働きによってなされています。私たちは、生きていく中で、悲しい出来事や辛い出来事に遭うこともあります。そんな時、私たちは、神さまのことを信じられなくなりそうになることもあります。しかし、神さまは、どのような時にも、私たちと共に歩いてくださいます。そのことを信じ、大きな苦しみや試練の中にある時も、神さまのみ心を求めながら歩いていきたい。聖霊により生かされていることを信じ、一日一日を過ごしていきたいと思います。