最高法院で裁きを受ける

 今日は、「最高法院」と呼ばれる場所でイエスさまが裁判にかけられたときのお話をしたいと思います。日本では「最高裁判所」と呼ばれる場所が東京にありますが、ここで色々な裁判が行われるのですが、ここで決まったら、もうその後はないんです。ここであなたは有罪です。死刑ですと決まったらもうそれは覆らないです。イエスさまはそういう大変厳しい場所に連れて行かれて裁かれようとしていたんですね。
 裁判は、公平に行われなければなりません。本当にこの人が罪を犯したのか、そのことが明らかにされ、悪いことをしていたのなら裁かれなければなりません。また悪いことをしていないことが証明されたなら、無罪放免と言って解放されて自由にされなければならいですね。ところが聖書を見ると、最高法院の議長の祭司長とその他全員が、イエスさまを死刑にするために不利な証言を裁判で求めたというのです。実は最初からイエスさまを死刑にする、十字架につけるために裁判が始まったのですね。そして「証人」と呼ばれる人々が沢山呼ばれて、イエスさまにとって不利な証言や偽証をしたんです。皆、イエスさまを死刑にしてやろうと企んでそうしたんです。でもどんなにイエスさまに不利な証言がされても、偽証と言ってありもしないことをあるように嘘をついて証言しても、食い違ったんですね。つじつまが合わない。そりやあそうですね。イエスさまは裁判で裁かれるような悪いことを何一つしていないのですから。
 じやあ、どうして人々はイエスさまを裁判にかけて罪に定めて死刑にしようと企んだのかというと、ここに人間の罪があったからです。今、イエスさまを裁判にかけて裁いているのはユダヤ人と呼ばれる人々です。天地を造られた天の父なる神さまを信じて生活していた人たちです。ところがそのユダヤ人たちが、神さまがお送り下さった独り子のイエスさまを、これは神の子ではない、救い主キリストではないと言っで、裁いて十字架にかけて殺してしまおうと考えたのです。
 実は、私たち人間は皆神さまによって創造され、こうして命を神さまから与えられて生かされている一人一人なんです。でも私たちはそのことを忘れてしまいました。神さまによって造られ命を与えられて生かされているかけがえのない存在であることを見失ってしまったのです。これが聖書のいう罪です。
 今、ウクライナで大変な戦争が続いています。人間が互いに殺し合っています。自分たちが神さまによって造られ生かされていることを完全に見失っています。もし見失っていなかったなら戦争は起こらないはずです。自分勝手に他国を侵略してミサイルや爆弾を人に向かって飛ばさないはずです。でも人間は自分が一番正しいと思って恐ろしいことをやるんです。これが人間の罪です。今も昔も人間は罪を持っています。そして罪が解決しないと人間は本当に救われないんです。罪は滅びです。だから神さまは何とかして御自分のことを人間に知らせるために、大切な独り子であるイエスさまを天からお送り下さったのです。ですから、イエスさまは神さま御自身と言ってもいいです。神さまは全ての人間に御自身を表して、そして罪を悔い改めて御自分の元に帰ってくることを望まれたんです。そのために神さまは私たちと同じ人間の姿にまでなられて、この地上に来て下さったのです。でも人間はそれが分かりませんでした。神さまのことを一番知っているはずのユダヤ人でさえ、イエスさまが神さまの独り子であることが分からなかったのです。そしてイエスさまを裁判にかけて裁いて殺そうとしているのです。
 ところがイエスさまは、御自分がどんかこ裁かれようとも、ぬれぎぬを着せられようとも、反論せず黙っておられるのです。このままでは死刑を宣告されてしまいます。でも何もおっしやられない。それで大祭司が「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」そう尋ねます。しかしイエスさまは黙り続けておられました。そこで大祭司は、イエスさまに「お前は、本当に神の子、メシア、キリストなのか」と尋ねました。するとイエスさまはこう答えたんです。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。イエスさまはさまっきりと私は神の子であり、メシア、救い主キリストである。イエスさまは御自分がキリストであることをはっきりと言い表し、それ以外は黙っておられましたが、それには大事な理由があったのです。罪無き神の独り子であるイエスさまが全ての人間の罪を引き受けて、身代わりとなって十字架に死ぬ。それ以外には、人間の罪が赦されて救われる道はないことをイエスさまは知っておられたのです。だから御自分が救い主であること以外は、何もお話にならずに死刑の宣告を受けて十字架に礫にされるままに任せられたのです。
 実は、神さまもイエスさまが裁かれて死刑宣告を受けて十字架に礫にされて死なれることを知っておられたのです。でも神さまもイエスさま同様に黙っておられました。それは罪無き独り子のイエスさまを十字架にかけて犠牲としなければ、人間は罪を赦されて救われないことをご存じであられたからです。それほどに神さまは私たち人間を愛し、これを赦して救おうとお考えになられたのです。
 でも人間はその神さまの愛が分かりません。今朝の聖書の終わりを見ると、「一同は、(イエスを)死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った」と書いてあります。誰もイエスさまが神の子であることも、そのイエスさまを十字架にかけて人間の罪を赦して救おうと決意された神さまの愛を知りませんでした。それどころかイエスさまを侮辱して苦しめ、神さまを傷つけてそのお心を踏みにじりました。
 でも神さまはその人間を赦して救うことをこの時心に決めておられたのです。そして私たちと和解して御自分の元に帰ってくる救いの道を備えて下さったのです。イエスさまの十字架は神さまと私たちを結ぶ架け橋です。十字架によって私たちは神さまと一つになれたのです。生きていると色々なことが起こります。病気になることもあります。苦しみや悲しみ、試練に出会うこともあります。でも神さまがどのようなときも私たちと一緒におられるのです。そして必ず助け支え導いて下さいます。私たちの神さまは、インマヌエルの神さまです。「神さまは私たちと共におられる」。そのためにイエスさまは黙って十字架の死に向かって歩まれることを決めておられたのです。