「われらを試みにあわせず悪より救い出したまえ」

今日は主の祈りの最後のお祈りについてのお話です。この主の祈りの「試(こころ)み」というのは「試練」(苦しみ)を指す言葉ではありません。神さまに苦しいことに合わせないでください、と祈っているのではないのです。「試み」というのは「誘惑(ゆうわく)」のことです。誘惑とは心を迷わせて悪いことに誘い込むこと、つまり、わたしたちを神さまから引き離そうとすることです。そのような誘惑が身に降りかからないように、いや、もし悪に身を置かれてしまったのであれば、そこから救い出してくださいと祈っているのです。

新約聖書、マタイによる福音書4章にイエスさまが荒れ野で受けられた誘惑のお話があります。
イエスさまは救い主としての歩みを始めようとする前に、神さまの聖霊によって荒れ野に導かれました。その荒れ野でイエスさまが40日間食事をしないで神さまにお祈りして相談されていたときのことです。お腹を空かせているイエスさまに悪魔はささやきました。
「神の子なら、この石をパンに変えたらどうか」と。パンは人間が生活するのに必要な物ですから、それを欲しがる人間に与える救い主になったらいいじゃないかと誘ったのです。これに対してイエスさまは「人はパンだけで生きるものではない」と答えました。神さまのみ言葉を聞くことによって幸せに生かされていくのだと聖書のみ言葉を用いて悪魔を退けました。
次に悪魔はイエスさまを神殿の高い屋根に立たせて言いました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ?天使が受け止めてくれたら人々があなたを神の子と信じる」と、奇跡によって人間に崇められたらいいじゃないかと誘います。これに対してもイエスさまは「あなたの神、主を試してはならない」と聖書のみ言葉をもって退けました。
最後に悪魔はイエスさまに世界中の豊かな国々を見せて「ひれ伏してわたしを拝むなら、これを全て与えよう」と誘います。イエスさまはこれもまた聖書のみ言葉から「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と悪魔に答えました。悪魔はイエスさまから離れて行きました。イエスさまは神さまのみ言葉をもって、誘惑に打ち勝たれたのです。

同じように悪魔は神さまからわたしたちを引き離そうと、たくみに誘い悪へと向かわせます。この誘惑が「試み」なのです。わたしたちの毎日は悪魔の誘いとの戦いです。わたしたちはすぐに神さまを忘れ、神さまのみ心よりも、神さまがお喜びになることよりも、自分が喜ぶ方へ、自分本位(自分勝手)にしたいと思う方へ誘われるものです。思いがけず辛いことや悲しいことに出会ってしまうとわたしたちは、神さまを疑い始めます。本当にいらっしゃるのだろうか?ともにいてくださるというけれど、こんな苦しみを負わされるなんて!ちっとも守ってくださらない、と。悪魔はこういうときに心の隙間に入り込んできて、神さまから離れた罪の生き方に誘うのです。そして悪魔の誘いに打ち勝てずにいると、ずるずると悪い方へ引き込まれて神さまから遠く離れてしまうのです。

でも、神さまはわたしたちに、誘惑に自分の力で打ち勝ちなさいとはいわれません。わたしたちがそのような力もなく誘惑にすぐに乗せられてしまうことを神さまはご存知です。大人であってもだれであっても自分の力で神さまから離れないようにすることはできないのです。だからこのように祈るしかないのです。試みにあわせないでください、そして、もし悪に引き込まれてしまったらそこから救い出してくださいと祈るのです。信じて祈り続けられるか自信ないかもしれません。でも、このお祈りを教えてくださったイエスさまは「勇気を出しなさい」と言われます。なぜなら、イエスさまはわたしたちの代わりにすべての誘惑や苦難をお引き受け下さり、最後に十字架と復活によってこの世に打ち勝ってくださった、そのイエスさまが一緒に祈って下さるのですから、何も心配は要らないし恐れることはないのです。