今日は、イエスさまがファリサイ派の律法の専門家と言われる人から「最も大切な掟」についての質問を受けた話です。イエスさまは、行くところ行くところで、話を聞きに来たたくさんの人々に、大切なことを教えていました。そして、イエスさまの話されることは、たくさんの人々を勇気づけ、大きな励ましとなったので、イエスさまは、大人気となりました。その人気は、ユダヤの人々が大切にしている律法と呼ばれている書物に書かれている神さまの教えを専門として研究したり、教えたりしているファリサイ派とかサドカイ派とか呼ばれる人たちよりも大きくなり、イエスさまの言われることが一番正しいという評判となりました。そのことをファリサイ派やサドカイ派の人たちは、当然、面白く思っていませんでした。イエスさまは、時に律法の教えに合っていないようなことを言ったり、実際にしたりしていましたので、その律法を完全に守ろうとし、そのことで自分は正しい、自分こそが救われると信じて我慢の生活を続けてきたファリサイ派やサドカイ派の人々は、何とかして、イエスさまを陥れて、イエスさまを牢に入れてしまおうと考えていました。
ファリサイ派の人たちは、一緒に集まって、またまた悪い相談をし、イエスさまを何とか陥れようとしていました。そこで、彼らが思いついたのは、「律法の中で一番大事な教えは何なのかということを質問しよう。」ということでした。律法には、たくさんの教えがあります。そのころに大切にされていたのは、神殿へのお参りや神殿での捧げもの、それについての細かい決め事がありました。また、食べていいものと食べてはいけないものの区別や仲よくしなければならない人や仲よくしてはいけない人の区別もありました。十戒をはじめとする律法には、365のしてはいけないことと248の守らなければならないことが記されているそうです。だから、ファリサイ派やサドカイ派と言ったユダヤの指導者たちの間でも、どの掟がその一番もとになるのかということは、いつも話し合われていたそうです。どれかの掟を大事にすれば、どれかの掟は、どうしても二の次に置かれてしまうことになります。そこで、そのことを十分に理解していた律法の専門家と呼ばれる人が、イエスさまに「律法の中で一番大事な掟(教え)は、何なのか」と質問することになりました。
イエスさまは、安息日と呼ばれる日に癒しの御業を行ったり、また、弟子たちが麦畑の麦をとって食べることを咎めなかったり、そのことを咎めたファリサイ派の人たちに、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」というようなことを言ったりしていました。そんなイエスさまの返答によっては、今までのイエスさまの行いや発言を持ち出してその矛盾点を突き、律法を守らないという罪で牢に入れてしまおうと考えたようです。しかし、イエスさまの返答は、彼らのたくらみの罠にかかるどころか、彼らいいがかりを付けるきっかけを一言も与えない完全なものでした。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』そして『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」という返答だったのです。このイエスさまの教えは、私たちにもとても大切なことを教えてくれます。信仰とは何なのか、何のための信仰なのか、キリスト者として自分はどう生きていけばよいのかということを示しているように思えてきます。
まず一つ目の神さまを愛しなさいということ。しかも、口先だけで愛するのではなくて、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主を愛しなさいと言われます。今の自分がどれだけ神さまのことを愛しているかと問われると、非常に心もとない気がします。自分の生活に振り回されて、神さまのことを忘れてしまっている。神さまにどうすればよいか問い求めたり、感謝の祈りを捧げたりする機会は一日のうちで何度もあるはずなのですが、十分にできていると胸を張ることはもちろんできません。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして祈ることがあったかどうか思い起こしてみても、それは、自分が窮地に陥った時に「苦しい時の神頼み」と言っていいような祈りであったとしか言うことができません。
それにも増して難しいのが、自分のことのように隣人を愛しなさいという教えです。クリスマスのCS礼拝で行った靴屋のマルティンの生き方がお手本となる生き方ではないかと思われますが、ここで気を付けなくてはならないのは、「隣人を愛しなさい」という言葉の前に「自分のことのように」という言葉が付いていることです。まず、自分を愛することができなければ、隣人を愛することはできないということではないでしょうか。
自分を愛するというのは、むずかしいことです。自分の欲望のままに行動し、生きていこうとすれば、必ず破綻が訪れます。いくらお金持ちになって豪華な家に住み、おいしいものを毎日食べたとしても、それで幸福であるとは限りません。何のために生きているのか見失ってしまったり、心からの幸せや喜びを感じることができなかったり、そういう人生を送ってしまうのではないか、恐らくそうだと思います。逆に、病にかかって収入のあてがなくなったり、不自由の中で生活しなくてはならなくなった時、自分を愛して喜びや希望を感じながら生きていくことも、むずかしいことだと思います。
そんな自分たちに希望や勇気を与えてくれるのが、隣人の存在です。隣人を愛する、隣人の世話をするということは、こんな言い方はどうかとは思いますが、面倒なことであるし、手間暇かかることであるし、自分のしたいことを制限しなければならなかったり、お金がかかったり、我慢や信望を強いられたり、本当に大変なことです。しかし、その隣人が笑顔になったり、その隣人から感謝の言葉を受けたりすることがあれば、それまでの苦労が大きければ大きいほど、自分の心は喜びに満たされ、勇気や希望を与えられることでしょう。そんな経験はだれにでもあり、わたしがここで偉そうにお話することではないと思いますが、自分を愛することと隣人を愛することとは密接な関係があるということを一番大事な教えの一つであると説かれたイエスさまの返答は、すばらしいなと思わされます。しかし、その土台になっているのが、第一の掟である「神さまを愛しなさい」という教えです。「自分のことのように隣人を愛しなさい」という掟は第二の掟であり、一番大事なのは、神さまを愛しなさいということなのです。
神さまを愛するということで大切にしたいのは、教会の礼拝に集うということではないかと思います。自分一人では難しいことでも、教会に行けばできることがあります。わたしが教会に通うようになった当初は、できなかったことがありました。それは、心を込めて祈るということです。祈っていても、心の中では別のことを考えているのです。この祈りには意味があるのだろうかとか教会の皆さんは本心から祈っているのだろうかとかいったとても失礼なものでした。それが、自分がCSの司会の役に用いていただき、みなの前で祈りの言葉を唱えた時、今までになく自分の言葉と気持ちが一致していたことに、驚きを感じました。心から祈れたという実感がその時にあったことを鮮明に覚えています。自分の力ではできないことが教会ではできるようになる。それが神さまの導きであり、礼拝に集う皆が心を一つにして祈りを捧げることこそ、「心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と説かれたイエスさまの教えを実現できる一つの形であると考えます。私たちが生活していく上で大切にしていくべきことを的確に教えてくださっているイエスさまの教えに、深くうなずかされる今日の聖書のみ言葉でした。
最後に一言祈ります。 ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今朝は、一番大事な掟について学びました。私たちが生きていく上で一番大事にしなくてはならないことを聖書のみ言葉は教えてくださいます。謙遜にそのみ言葉に聞いて、信仰と生活の誤りなき規範としていくことができますように。この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。