説教(2025年11月月報より)

「父のもとに行くただ一つの道」

寺島謙牧師

ヨハネによる福音書 14章1~7節 

 今朝は,「聖徒の日」の礼拝を捧げます。聖徒とは,キリスト者のことです。この会堂の右側の壁に掲げられてある名札ほ,キリストにあって亡くなられ,今や一つとされた,かつて本教会の会員であられた方々のものです。聖書には,「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして,わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。」という主の言葉が書かれています。まことの天の父が,私たちのために十分な住まいを天に用意していて下さることを,信じなさい,ということです。主イエスの父は,ヨセフではなく,人間をはじめ,万物を造られた天の父です。聖書の放蕩息子のたとえ(ルカによる福音書15章11節)を通して主が語られた,愛に満ちた天の父です。父の愛を忘れ,勝手な生活を送った末に帰宅して来た息子を,この父は責めずに喜んで受け入れました。「この息子は、死んでいたのに生き返り,いなくなったのに見つかったからだ。」と言って。 この話は私達の有様をそのままに語っています。人は皆,自分を造られた天の父(造物主)のもとを離れ,自分の力で生きることが出来ると思い違いをして,勝手な道に入って行きました。私達は自分のカで生きることは出来ません。父なる神に生かされているのです。これに気付かない,それこそが罪です。
 ここではまだ,十字架が具体的に示されていません。「わたしがどこへ行くのか,その道をあなたがたは知っている。」と主が話されると,弟子のトマスは,「主よ,どこへ行かれるのか,わたしたちには分かりません。」と問いました。主は「わたしは道であり,真理であり,命である。わたしを通らなければ,だれも父のもとに行くことができない。」と答えられました。私達は皆,主イエス・キリストを通して,父にもとに行くのです。住いを沢山用意していて下さる父のもとに。この当時,弟子達さえ理解していなかった道。その道は、正に主イエス・キリストです。私達が父のもとに行くための「道しるべ」。これを自ら携えて私達のもとに来て下さったも死して復活され,今も私達と共にいて下さる主。
 人生を生き抜くのは,いずれも多難な道です。そして,その先には必ず「死」が待っています。それで終りなのでしょうか。私達の敬愛する信仰の先達たちは,それで終ったのでしょうか。決してそうではありません。主イエス・キリストが示された,愛なる父なる神が,住まいを備えて待っていて下さる天の国へと先立たれたのです。今朝も,私達が目にする先達の方々は,この礼拝を通して,この事を呼び掛けて下さいます。私達の個人生活にも,また教会の歩みにも,悩みや困難が多いのは事実ですが,もう一度勇気を出して,薪たな歩みを始めたく願うものです。