「救い主の前に立ち帰らせるために
寺島謙牧師
ルカによる福音書 1章5節~25節
今朝は,待降節第2主日の礼拝を捧げます。現在も暗い時代でありますが,主イエスのお生まれになった時代も,人々は暗い世を生きていました。ヘロデ王の時代です。彼は,ローマの権力を背景とした傀儡王でした。新しいユダヤの王が生まれると聞いた彼は,不安のあまり,2歳以下の男の子を皆殺しにする命令を出したのです。考えてみると,史上この方,明るいという時代は無かったかもしれません。しかし,クリスマスは来る。今年も来ました。我々の其の希望は消えないのです。
暗いのは,時代だけではありません。人間自身の中に闇があるのです。聖書に書かれたザカリアは祭司でしたし,その妻エリサベトもアロン家の血筋で,二人共正しい人で,人々から敬愛されていたと思われます。しかし彼らにも悩みがありました。エリサベトは,すでに高齢に達していましたが,いまだに不妊でした。現代と違って,当時は不妊は不幸とされ,二人共に深い悩みの中にありました。なぜ我々には,子が授けられないのか。これが嵩じて,不信仰にさえ陥っていたとも思われます。我々と同様です。神が共におられるということは真実なのか,という疑いに覆われ勝ちだったのではないでしょうか。つまり,本日の聖書箇所は、立派な信仰者の話ではありません。神の一方的な恵みの話です。
主の聖所に入って香をたく祭司を決める,くじに当たったザカリアは(一生に一度,当たるか否かという,くじです),香壇の右に立った天使を見て,恐怖に襲われます。当然の事かも知れませんが,結局は,彼の不信仰から来た恐れと思われます。これに対して天使ガブリエルは,恐れるな,と告げます。「その子は既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて,イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」,と。主キリストの先駆者の誕生という,全ての民の喜びを告げられた祭司ザカリアでしたが,彼は常識論に立って,これを信じ得ず,ロが利けなくされてしまいました。正に我々の姿ではないでしょうか。
クリスマスは,我々の不信仰にもかかわらず,必ずやって来ます。「インマヌエル」,一神共にいます-です。ザカリアの傍らにも,神が居られたのです。エリサベトも,その信仰を回復されました。「主は今こそ,こうして,わたしに目を留め,人々の聞からわたしの恥を取り去ってくださいました。」(25節)艱難に次ぐ艱難の生涯を送った使徒パウロは,そのために信仰を失うことはありませんでした。常に,主が共に居られる事を信じて,前進を続けた人です。ローマの信徒への手紙の中で,「どんな被造物も,わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。」と述べています。