6月15日(特別伝道礼拝)

「キリストの愛の中で」
 菅原力牧師
 ルカによる福音書 22章31~34節 

 今日皆さんとご一緒に聞きます聖書箇所には、主イエスとペトロのまことに短い会話が記されています。ペトロというのは、主イエスの弟子の中でも年長の人だったようで、弟子の中の筆頭格のような人でした。その主イエスとペトロの対話が記録されている聖書箇所です。しかし短いけれどとても大切な、対話です。だから四つの福音書全てにこの時のことが記されています。けれどよく読むと、ルカにしか書かれていない主イエスの言葉があり、ルカは自分が受けとめている伝承で、この主イエスの言葉をどうしても書き記したかった、ということが伝わってくるのです。

 主イエスはペトロにこう語りかけた。「シモン、シモン、サタンはあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」どうして主イエスは、ペトロのことをここでシモン、と呼んだのでしょうか。シモンとは彼の本名です。ペトロは彼のあだ名です。あだ名ではなく本名を敢えて呼んだのは、この会話の内容と深くかかわっているのではないか。主イエスはある時、わたしに向かっても他の誰でもない、わたしの名を読んで語りかけてこられるのではないか。だからここで主はあえて、シモンと呼ばれたのかもしれない。それは、サタンがあなた方を小麦のようにふるいにかけるというのです。サタンというのは、悪魔のこと、誘惑する者です。いきなり、ドスンと重い直球。サタンがあなたのもとに来て、あなたに働きかけるというのですから。小麦をふるいにかけるというのは、小麦ともみ殻をふるいにかけて分ける、つまり信仰を試練や試みに遭わせると比喩的な表現です。そのことをサタンが願ったら神はそれを聞き入れられたというのです。不思議な話です。しかしこの主の言葉からはっきりわかることがあります。それは、神さまはわたしたちを守り導く方であるけれども、そのことはわたしたちを真空状態に置くわけでも、無風状態に置くということでもない。何の試練も何の試みもない状態にわたしたちを置くわけではない。むしろ神さまの導きは、わたしたちがサタンや悪魔の誘惑、こころみの中に置かれるその中で示されていくものともいえるのです。
「シモン、シモン、あなたはこれから先、悪魔の誘惑、こころみに出会っていく。」「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」この言葉は、主がシモンがサタンの誘惑に出会って、こころみに出会って、信仰がなくなるような状態になることを熟知しておられた、ということにほかなりません。
 シモン、わたしはこれから先、十字架にかかっていく。そこであなたはサタンの誘惑を受けるし、こころみに出会っていく。そしてその誘惑に対して、試みの中で、あなたは打ち勝つことはもちろん、試みを払いのけることもできず、ことごとく敗北していく。キリストはそのことを熟知しておられたのです。
 しかしいきなりこんなことを言われたシモンにとって、この主イエスの言葉はよくわからない、承服できない、はいそうですかとはとても言えない言葉だったに違いありません。
 だからペトロはすぐに反論したのです。「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」これはウルトラな反論ですよ。わたしはサタンの誘惑に負けるなんてことはない。負けるどころか、わたしはどこまでもあなたについていきます、と言っているのですから。自分は信仰者として、誘惑に出会っても、神を仰ぎ、主よあなたに従っていきます。そういう強い信念のようなものがここで語られています。
 しかし、主イエスはそんなシモンの言葉に対してはっきりこう断言して言われる。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないというだろう。」

 もう一度31節を読んでみます。「サタンはあなた方をふるいにかけることを神に願った。」「神もまたそのサタンの願いを聞き入れられた。」神はわたしたちを真空状態の中においておられるわけではない、と先に申し上げましたが、わたしたちがこの世界で生きるということは、ある時、ある局面でだけ誘惑を受ける、というのではないでしょう。皆さん自身も胸に手を当てて考えてみればわかるように、わたしたちの歩みは、朝起きてから夜寝るまで、サタンの誘惑の中に絶えずさらされている、ということでもあるのです。神が聞き入れられたということは、そのことの象徴的な表現なのかもしれない。サタンの誘惑というととても大きな出来事を連想される方がいますが、必ずしもそうではない。夫婦の短い会話の中でも、サタンの誘惑は忍び込んでくる。

 誘惑というのは、多面的というか、いろいろな面をもってわたしたちに迫ってくるのですが、一つには、神の助けなんか都合よくは来ないぞ、だから、自分で頑張るしかないんだぞ、というふうに呼びかけてくる。例えば、病気になったとき、苦しいことに直面したとき、神が遠ざかっていくような思いにさせられた人もいるでしょう。わたしの困難な場所こそ、神がわからなくなる場所であるかのようにわたしたちは思いこんでいく。だから困難の場所で、わたしたちは自分だけで背負い込もうとし始める。自分一人で抱え込もうとするのです。自分一人で抱え込もうとする、それこそサタンの誘惑なのではないでしょうか。神抜きで、自分の力で困難を抱え込む、サタンが喜ぶシチュエーションです。
 さらに、誘惑は全く別の働き方もする。それは、これぐらいのことは自分の力でできる。やってしまう、気がついたら神抜きで、神と関係なく事柄を進めていた、という誘惑です。これらは複雑に絡み合ってやってくる。
 この短い対話は主イエスが十字架にかかる直前、逮捕の直前の対話です。シモンも、主イエスが逮捕されたとき、もうこれからは自分で困難を切り抜けていくほかない、と思ったのかもしれない。主イエスは逮捕された。もう自分は主イエスに助けもらうことはできない。そうシモンは感じていたかもしれない。誘惑に遭う、それは、あなたは自分が一人でこの世界で苦しんでいる、この苦しみ、自分で何とかするほかない、というふうに追い込んでいくのも力なのです。
 シモンは主イエスが逮捕されて初めてそこで誘惑に遭ったわけではありません。「牢に入っても、死んでもよいと覚悟しております。」とシモンは言ったのですが、その覚悟自体が、自分で背負い込もうとすることに繋がっていたのではないでしょうか。覚悟それ自体が、自分が引き受けていこうということになっていったのではないか。シモンはもうこの時に誘惑の只中にあったのです。誘惑に晒されていた。だから、主イエスが逮捕されたら、手のひらを反すようにして、自分で自分の身を守ったのではないか。

 主イエスは知っていてくださるのです。シモンのどんなに強い信念も、キリストに従っていくぞ、という自信に満ちた覚悟も、決して盤石なのではなく、崩れる時が来るということを。持っていると自負していた信仰も、なくなってしまう時も来るということを。主イエスはシモンにこう言われた。
「しかし、わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」立ち直ったら、と主が言っておられるということは、シモンが何かを喪い、崩れて、挫折するその場所を、もうすでに見つめてくださっている、ということです。
 シモンがたとえ倒れ、崩れても、自分がこれまで後生大事に抱えてきた自分の信心、信仰を失っても、シモンから決してなくならないもの、奪われないものがある。それはイエス・キリストのシモンへの祈りなのです。その折りは、シモンが倒れようが、へたり込もうが、シモンを覆っている、それがキリストの祈りであり、キリストの十字架であり、キリストの信実なのです。
 主イエスの祈り、それはシモンに対して、困難こあっても打ち勝つ信仰を持てとか、それを乗り越えるだけの力を持て、と言っているのではない。あなたがどんなに失っても、奪われても、あなたはいつも丸ごと支えられている、背負われている、それを受けとめてそこから歩みだしてほしいという祈りなのです。
 あなたにはキリストの祈りがある、そのことを信じて、倒れた場所、挫折した場所から歩みだしてほしい、そういう祈りです。「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った」という主の言葉は、あえて言えば、あなたが自分の信仰を失うような場で、イエス・キリストによって与えられ信仰を受けるよう祈った、ということに他ならない。
 「だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」これはシモンに向けて語られた言葉。あなたが誘惑に晒され、誘惑に負けて、神を見失い、信仰を失い、自分の力で、自分だけで生きようともがく中で、キリストの祈りが自分には注がれている、この世界は、キリストの祈りがある世界なのだということに気づかされてきたら、そのときは同じように誘惑に晒されていると力づけてやりなさい、そうキリストはシモンに語ったのです。

 シモンはこの後、主の言葉どおり、キリストのことを知らないと三度も否み、キリストを見棄てて逃げ、さらに復活の主もすぐには信じられず右往左往する。それはまさに誘惑に敗北し、みっともない姿を晒したシモンでした。
 しかしどんな敗北し、みっともない姿を晒したとしても、自分の根本はキリストだということをその敗北した場所で、知らされていくのなら、それでいい。
 キリストにとって、仕えるということは、あなたの信仰がなくならないように祈ったということであり、このわたしがどんなものであれ、どんなにサタンに敗北するものであれ、丸ごと背負うということ。棄てない、見離さない。信仰がなくならないように、ずっと祈り続けている、というお言葉だったのです。この祈りが、このキリストの愛がシモンを根本から支えているのです。シモンを支えるのは、シモンの頑張りでも、覚悟でも、彼が思いこんでいる信仰でもない。ただキリストの愛がシモンを根底から支えていくのです。