「神に愛されている、私」
寺島謙牧師
エフェソの信徒への手紙 1章3~7節
本日の型番箇所の冒頭に,「だから」とあります。祈りについて弟子達に教えられる前提ともいうべき事です。人に見てもらうために,くどくどと,長く祈らないこと,父なる神は,祈る前から,あなた方に必要で祈るべきことを御存知であることです。これを踏まえて主ほ,曹遍的かつ至高な祈りである「主の祈り」を教えられたのです。目に見えない方に語りかけることは難しいことです。ルカによる福音書11章にも「主よ,ヨハネが弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈りを教えて下さい。」と弟子の一人が言ったと書かれています。
もともと,私達に祈りはなかったのです。主イエス・キリストの十字架の贖いによって神の子となった我々の,「呼吸」ともいうペきものが祈りです。私達の全てを御存知の私達の父となられた神,この神とのコミュニケーションが祈りです。この父が,常に共におられることを知らしめるのが祈りです。これを正に,口移しに教えていただいた,比類ない恵みとも言うべきものが「主の祈り」です。
まず,「父よ」という呼びかけから始まります。この「父」は,本当に居られるのです。かつてモーセに現れた神は,「わたしは,あるという者だ」(出エジプト記,3;14)と言われました。真にいまし給う神の,御名があがめられることを祈るのです。その御心が地にも行われ,聖霊を通して地上のもの全てが主なる神を信じる者へと向かわせられるように,祈るのです。常に,不信仰へと傾く可能性をもつ私達を,正しい信仰へと呼び戻して下さるのが聖霊です。ルカによる福青書11章13節には「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」とあるように,聖霊のみが,私達の倍仰を守って下さるのです。
私達の生命を保つための日毎の糧のためにも祈ります。高尚な祈りの言菜の中に,一見,俗な事への祈りがある事の重要性は,注目すべき事です。私達の負い目への赦しを乞う祈りは、私達にとって最も大切で切実なものです。なかなか,他人の罪を許せない私達。聖書には「わたしたちも赦しましたように。」と書かれており,(聖日礼拝毎に,一緒に祈る祈りには,「我らが許すごとく」となっています),私達が人を赦すことが前提となっているように思えますが,実際はどうでしょうか。これを読む度に,十字架上で,全ての人々を赦した主イエス・キリストを思い,私達も自分に負い目を与えた人を心からゆるせるようにして下さい,と祈らざるを得ません。同時に,祈ることが出来なくなった時も,主の祈りによって私達が再び祈れるようにして下さることに感謝したく思います。