説教(2025年2月月報より)

「誘惑を受けるイエス」

 マタイによる福音書4章1~11節 

  寺島謙牧師

 主イエス・キリストも誘惑を受けられました。「霊に導かれて」とあります。この「霊」とは「聖霊」です。神御自身です。つまり,神自らが,主イエスを誘惑へと導かれた,というのです。(マルコによる福音書には、「イエスを荒れ野に送り出した」と書かれています)。荒野とは,人間が生きて行けない所です。ここに,主イエスは40日間も居られた。もう限界だったでしょう。本当に飢えられた。愛なる神の御子が,死の寸前まで追い込まれた。この時とばかり,サタンは、パンの間題を持ち出します。強烈な誘惑でした。この他にも誘惑が続きました。しかし主は,これら全てに打ち勝たれます。
 何故,御心にかなった御子に対して,神はこのような試みをお与えになったのでしょうか。それは,我々人間のためでした。色々な困難,悩みや行き詰まりに満ちた現実に生きる我々に,“本当に、神にのみ頼ることを示すためでした。旧約聖書に出ているアブラハムの場合が,正にこれでした。かねてから,世継ぎの子がほしいと切望していたアブテハムに,高齢になってようやく与えられたイサク。そのイサクを殺して生賛として捧げよ,と神が告げ給いました。何という事でしょう。聖書には何も書かれていませんが,アブラハムの心中は、いかばかりであったか。疑い,苦悩,戦い。この試みに,彼が打ち勝ったことも我々のよく知る所です。それ故にこそ,彼は「信仰の父」と呼ばれ,我々の信仰生活の指針を示す人として尊敬を集めているのです。「神はアブラハムを試された。」(創世記,22章)と書かれているように,神は我々にも試練を与え給います。しかし神にのみ頼って生きることの出来ない我々!罪は,正にここにあるのです。世のもの全て(有形無形のもの全て)は,神のものです。
 神を失うことは,絶望に他なりません。これを私達に避けさせるために,神は我々にも試みを与え給うのです。信仰の勇者ともいうべきアブラハムは、あの時,文字通り全てを主にゆだねることが出来たのでしょう。全く厳しい試練でした。試練は私達を救うために与えられるのです。この試練に耐え難い我々のために,神はその独り子を世に降し給いまじた。その十字架によって,我々は支えられているのです。我々自身も,主のものです。「この大祭司(主イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく,罪を犯されなかったが,あらゆる点において,わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ人への手紙4牽16飾)と聖書に書かれています。ある牧師は、「試練の時は、大切な時。これを避けようとしてはならない。」と言われました。与えられた道を,感謝をもって,神に信頼しつつ,歩み通したいものです。