説教(2020年4月月報より)「キリストの祈り」

 主イエス・キリストは,日毎に真剣に祈られました。主の全ての事蹟の基に祈りがあったとも言えます。主は神の御子であられましたが,人間としても地上を歩まれた方です。父なる神への祈りを,特に大切にされました。本日の聖書箇所は,主がゲッセマネで,特別な祈りを捧げられた所です。十字架の死を前にした主は,弱々しい姿に見えます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と言われ,「アッバ,父よ,あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られました。死を恐れずに受け入れた殉教者たちの生涯にふれると,主イエスは真に救い主なのだろうか,という疑いの思いさえ抱きかねません。現に宗教改革者ルターも,「この人程,死を恐れた人はいなかった。」と言っています。勿論主が,単なる肉体的な死を恐れたのではありません。もしもそうであるならば,隠れていればよかったかもしれません。そうはなさらずに,ゲッセマネで切なる祈りを捧げられたのは,十字架上で,父なる神に捨てられるという,耐え難い苦痛を避けたく願われたのでしょう。しかし十字架は,父なる神の御旨でした。主イエスが「しかし,わたしが願うことではなく,御心に適うことが行われますように。」と祈られた通りになりました。我々の罪を贖うための苦痛を,一身に負われた苦しみは,十字架上の主が大声で叫ばれた言葉「わが神,わが神,なぜわたしをお見捨てになったのですか」に表れています。我々の重い重い罪のために,罪のない主が神に捨てられて死に給うたのです。神を忘れて生きている,身勝手な我々のために。
 一緒にゲッセマネに来た3人の弟子達は,主が死ぬばかりに切に祈っておられた時,何度も眠ってしまったのです。これが実に我々の姿です。使徒パウロが,「正しい人は一人もいない」と言った通りです。我々は,自身の罪の重さを,十分には知っていません。主の十字架上の苦しみの深さが,その重さを知らしめるのです。
 現在,世界に,新型コロナウイルス感染の爆発的拡大が続いています。亡くなった多くの人々,感染して苦しみの中にある人,仕事や住いを失って絶望の中にある人達等々,世界中が苦しみの中に置かれています。それでもなお,人々は神を忘れているように思われます。これは正に神の与え給うた試練です。神を頼みとしない人間への,神の呼びかけではないでしょうか。「私の許に帰れ。」
 いよいよ,受難週に入りました。我々の罪のために,十字架上で死をとげられた主を深く思う時です。苦しみの中にいる我々ですが,しかしなお,主が共に居られ,主が我々を愛し給うことを強く覚えたいものです。