説教(2023年12月月報より)

「父なる神から遣わされた方」

寺島 謙牧師

ヨハネによる福音書 7章25~31節  

 待降節を迎えました。これは,6世紀に始まったと言われていますが,「来臨を待つ」を意味するこの言葉は,単なる「来るのを待つ」という意味ではなく,我々の「救い」と深い関係があります。救い主イエス御自身が言われました。「わたしはその方のもとから来た者であり,その方がわたしをお遣わしになったのである。」その方とは「真実な方」,「唯-の方」である,父なる御神であります。そこに居合わせた人々は,これを直ちに受け入れることは出来ませんでしたが,我々とて同様でありましょう。家畜小屋で生まれた,質素な一人の大工。この人物を神と崇め,救い主と仰ぐことは,人間の力だけでは不可能なことです。我々は,地上の現実にのみとらわれ,「真実な方(神)」を知らないのです。主イエスの御言葉の通りです。「わたしをお遣わしになった方は真実であるが,あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。」全てが神の御手の中にあることを忘れ,神から離れているのです。勿論,きびしい現実は目前に横たわっています。しかし,我々が神によって生かされ,神こそが希望の基であることを信じなけれぱ我々には全く希望はないのです。
 真実の神は,我々一人一人を愛されました。そのために,御一人子を世に降されました。神の受肉。これは信じ難いことです。蹟きのもとでもあります。しかしこれは,真実の神の強い決意と深い愛の表れです。主の十字架が,これを示しています。 この愛を伝える業を,神は助け給います。この信じ難い事実を信じる者を起こされます。神御自身が,信じる力をお与えになるのです。現実の世界に生きる我々は,この神の愛の力がなければ,現世のカに負けてしまうのです。
 古代のキリスト者は,クリスマスに断食をしたと伝えられています。この先人達は,クリスマスの喜びと同時に,きびしさを覚えることを願ったのでしょう。我々も,畏敬の念をもって,クリスマスを迎えたく願うものです。ともあれ,クリスマスは我々の待望の時であり,喜びの時でもあります。我々を罪から救い,信じる者に永遠の命をくださった救い主の御降誕を祝う時です。待降の日々は,その喜びを心から受け入れる準備の時であります。この心を忘れることなく,有意義な日々を送ることを願うものです。