「キリストの食卓」
寺島謙牧師
マルコによる福音書14章22節~26節
今朝の礼拝は、世界祈祷日礼拝として捧げます。そこでまず,聖餐の意味をはっきりと再確認したく思います。この起源は、ユダヤの大切な「過越」の行事に遡るのです。かつてユダヤの民は,エジプトで虐げられていましたが,神は数々の奇跡を行って民を救出されようとなさいました。その10番目に行われた奇跡が,「過越」です。神はユダヤ人の全ての家族に,1匹の子羊を屠りその肉を食し,家の入口の鴨井にその血を塗っておく事を命じ,その家々を過越して、他のエジプト人の全ての初子を打たれました。こうして難を逃れたユダヤの民は、モーセに率いられてエジプトから脱出しました。従ってこれは民族の出発点です。今日に到るまで,彼らはこれを記念して過越の食事を行っているのです。
しかし,これで民は救われなかったのです。エジプトの虐げからは開放されましたが,神から絶えず離れ、勝手な道を歩んだイスラエルの民には,旧約聖書に沢山の記事がある通り,多くの艱難、悩み、行詰りが待ち受けていました。神から送られた預言者が,何度も悔い改めを迫りましたが,民の歩みは変わりませんでした。よく考えてみると,我々についても,同じことが言えるのではないでしょうか。我々はともすると,神の御旨が成ることよりも,自分の願いがかなうことを第一に望み勝ちです。イスラエルの民の歩みと同じです。ここに,人間の罪の問題があるのです。昔も今も,社会を構成する人間は,皆罪人です。今,我々が直面する社会の諸問題,ウクライナ戦争・統一教会問題,地球温暖化問題等は皆,人間の罪の現われです。我々にも,過越を越えた神の業が必要なのです。
主イエス・キリストは,十字架上の死を遂げられる直前の「過越」の食事の席上パンを裂き,また杯を取って,弟子達に取りなさい。これはわたしの体である。」,「これは多くの人のために流されるわたしの血,契約の血である。」と語られました。我々の罪をあがなう,主イエス・キリストの体と血です。新しい,神の契約です。十字架上で裂かれた主の体,流された血が,我々を罪から救うのです。この神の約束は,決して変わりません。「神の国で新たに飲むその日まで,ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とは、ゆるぎない神の決意を示しています。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰの11章で,主から受けた事として,『主イエス拝パンと杯を与える席で,「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。』,『このパンを食べこの杯を飲むごとに,主が来られるときまで,主の死を告げ知らせるのです。』と述べています。聖餐は,我々の信仰を強め,聖めるものです。感謝して、これを受けたいと思います。