「過越の食事」

 CS礼拝説教 マタイ26章47~56節


 今日は、イエスさまが弟子たちを過越の食事に招いた場面です。過越しの食事の由来や内容については、本来は子どもたちに分かるように丁寧に話さないといけないところですが、今日は、省かせていただいて、わたしが、今日の場面で疑問を抱いたことに絞ってお話をさせていただきます。
いくつか疑問が出てきました。
①  なぜユダはイエスさまを裏切ったのか。
②  イエスさまが、今夜わたしを裏切る者がいるということを話された真意は何なのか。
③  もしユダが裏切らなかったとしたら、どうなっていたのか。
④  イエスさまと弟子たちの食事が聖餐という形でずっと続いているのはなぜなのか。

 まず一つ目の疑問は、どうしてユダはイエスさまを裏切ったのかということです。今までお慕いして、共に歩んできたイエスさまを裏切るというのには、何か特別なわけがあったからなのでしょうか。弟子として共同生活を送っていくのが嫌になったのでしょうか。イエスさまに対してもっと自分のことを見てほしい、関わってほしいという願望が叶わず、一番弟子として重宝されたのかもしれないペトロ達に対して、嫉妬心が起こったのでしょうか。それとも、残していった家族のことが思い出されて、お金を持って帰りたくなったのでしょうか。もしかして、好きな女性でもできたのでしょうか。想像はいろいろできますが、ペトロは、イエスさまが有罪になった後に、後悔して祭司長たちのもとに、金を返しに行きましたとのちの27節に書いてあります。金を返すからイエスさまの助命を願ったということなのでしょう。しかし、「知ったことではない、それはお前の問題だ。」という祭司長の言葉によって生きる希望を絶たれてしまい、罪の意識に耐えられなくなって、銀貨を境内に投げ込み、その後、首をつって自殺をしてしまいます。
ユダが裏切った原因というのは、はっきりと分かりませんが、ユダの最期を思うと、辛い気持ちになります。同じ人間としてユダに同情せざるを得ない気持ちがします。なぜなら、私たち人間は、罪をおかしてしまう存在であるからです。わたしは、絶対にユダのように主を裏切ることはないとは言い切ることはできないし、「たとえみんながつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と言い切ったペトロでさえも逃げてしまっているのです。

 二つ目の疑問は、イエスさまが、今夜わたしを裏切る者がいるということを話された真意は何だったのかということです。始めに思ったのは、話さなくてもよかったのではないかということでした。イエスさまのこの言葉によって、弟子たちの間に瞬く間に不安が広がり、「まさか、わたしのことでは。」と代わる代わる言い始めたと書かれています。誰にもいつ自分がイエスさまを裏切ってしまうかもしれないという不安があったことを示しており、弟子たちとの間の最後の食事であることを知っていたイエスさまは、あえて不安の広がる言葉を通して、弟子たちに伝えたいことがあったのではないのでしょうか。今日読んだ聖書の中では、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」とイエスさまは言われています。何とか、思いとどまってほしいという願いがイエスさまにあったのかもしれません。それに対してユダは、「先生、まさかわたしのことでは。」と口をはさみます。するとイエスさまは、「それは、あなたの言ったことだ。」という返答をされました。この返答は、どちらにも受け取れる微妙な言葉です。「わたしは、お前だとは言っていない。あなたがそう思っているだけだ。」そのように受け取ることもできますが、「あなたの言ったとおりだ。うらぎるのは、あなたなのだ。」と受け取ることもできます。しかし、どちらにしても、イエスさまは、ユダに裏切りを思いとどまってほしかった。ユダに罪を犯すことを思いとどまらせたかった。ユダがその後どうなるかをすべて知っておられたイエスさまが示されたユダへの最期の愛だったのでしょう。

 三つ目の疑問は、もしユダが裏切らなかったとしたら、どうなっていたのかということです。
これは、ユダが弟子たちの中で一番イエスさまのことを理解していたのではないかということを何かの本で読んだことがあり、そこから起こった疑問です。イエスさまは、ご自分が十字架にかかる道を歩まれることを決心されていました。弟子たちも、イエスさまからそのような話を今までに何回か聞かされていました。しかし、そんなことは起こってほしくない、イエスさまには、ローマの支配からエルサレムを救う英雄になってほしい、そんなイエスさまに従っていきたいという願望が強くあったはずです。ペトロなどはその代表であったかもしれません。しかし、ユダだけは、イエスさまの本当の願いを理解していたのかもしれません。敢えて自分が悪い役を引き受け、汚名を残すことになっても、イエスさまの思いを成就することに役立ちたい、そういった気持ちがあったのかもしれないのです。聖書の記述を読むと、それを裏付けるようなことは、何一つ書かれていないのですが、ユダの裏切りによって、イエスさまは捕まりましたが、他の弟子たちは、生き延びることができました。もし、そこでユダの裏切りがなかったら、弟子たちの一人が剣を抜いて手下に打ちかかったと書いてあるように、ひどい闘いとなって、弟子たちまで全員捕まったり、命を落としてしまったりしたかもしれません。ユダはイエスさまを裏切ったことによって、自ら命を絶ち、後世にもこれ以上ないような汚名を残してしまいました。しかし、ユダの行為によって、聖書の言葉が実現し、一度はイエスさまを残して逃げ、裏切ったことへの罪の意識に苦しみ続けることになった弟子たちは、とにかく逃げ延びることができました。その弟子たちによって、イエスさまが広く世に知られるようになったことを考えると、ユダのしたことも、神さまのご計画の一つだったのでしょうか。イスカリオテのユダと聞くと、とんでもない罪人とばかり考えていた自分ですが、何だか弁護したい気持ちになります。

 そして、最後の疑問のイエスさまと弟子たちの食事が聖餐という形でずっと続いているのはなぜなのかという疑問についてです。イエスさまは、十字架にかかり、肉を割かれ、血を流されて命を落とされました。しかし、その肉と血の犠牲によって、人間は罪を赦され、神さまの子として生きることを赦されています。私たち人間は罪を犯してしまいます。それはどうしようもないことで、私たちがいくら気を付けたり努力しても、罪を犯さない者にはなれないのです。そんな罪深い自分が生かされ続け、一つの区切りを迎えることができたのは、どうしてなのでしょう。神さまが救ってくださったと考えるのは簡単ですが、それならば、神さまに大きな借りができたことになります。そのご恩をこれからの新しい人生で返していかなければなりません。聖餐は、そのような罪深い自分を神さまが、ご自分の肉を割き、血を流されてまでして、救ってくださっているということを思い起こす儀式だと思います。ユダのことに戻りますが、罪を犯し命を絶ったユダも、きっと罪を赦されたに違いありません。罪深い私たち人間の罪を自ら引き受け、十字架にかかられたイエスさまを思い、このレントの時期を厳粛に歩んでいきたいと思います。

 最後に一言祈ります。
ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今朝は、過越の食事について学びました。罪深い私たち人間は罪を犯し続けています。一度は悔い改めても、また罪を犯してしまう愚かな存在です。そんな私たちを神さまは聖餐に招き、またその罪を赦してくださり、生かし続けてくださいます。しかし、そこには、神さまの大きな忍耐があり、苦痛があり、悲しみがあるはずです。そのことを覚え、自分に備えられている恵みと神さまの大きな愛に感謝して、神さまから与えられた道をしっかりと神さまを見上げて歩んでいけますように、私たちをお支えください。
この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。