説教(2021年11月月報より)

 今年も,4名の方々が天に召されました。今朝の礼拝は,聖徒の日の礼拝として捧げます。それは,これらの方々を単に偲ぶためにだけ捧げるのではなく,今も教会の中で生きておられ,私達に信仰の証人として働きかけておられる方々として思い起すためです。ヘブライ人への手紙12章1節にある通り,また11章にも旧約の信仰者が多く示されている通り(アブラハム,ヤコブ,モーセ,ダビデ,等),私達は多くの信仰の証人の群れに囲まれているのです。たとえ,時代や場所が異っていても,信仰に生きるということに,変わりはありません。これは丁度,競技場の大観衆が,私達の信仰の歩みを応援してくれているのと同様です。本会堂の講壇に向かって右上の壁に,天に召された多くの教会員,牧師の名前が並んでいますが,これらの方々は私達に神を証しし,共に礼拝に加わっておられるのです。
 ところで,私達が信仰のこれらの先達を思い浮かべる時,記憶に残る立派な言行のみが思い出され勝ちですが,この方達は決して別世界の人達ではありません。さらに言うならば,先のアブラハムやモーセら,大先達でさえ,案外私達に身近かな人物だったことが,聖書からわかるのです。聖書は実に,真実を語る書物です。かの信仰の偉人達も私達と同じ罪人であり,色々な過ちを犯しました。聖書には,彼らがいかに神に赦され,導かれたのかが書かれているのです。私達も,今朝の聖書箇所にもある通り(12章1節)「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて,自分に定められている競争を忍耐強く走り抜く」ように努力せねばなりません。そして,主の十字架を思い,自分に与えられた重荷を負い,苦難にも耐えねばなりません。
 私達も,教会の先達も,主イエス・キリストを知り,喜びのうちに人生を歩み得た人達と言うことが出来ます。旧約の人々は,救い主を待ち望みつつ,生涯を終えたのです。思えば私達には,実に幸いなことです。教会の先達の方々も全て,一人づつ違った人生の悩みと向き合い,戦い,共に生きて導き給う救い主キリストを信じて歩み通されたのです。「私達が出来たのだから,あなた方も,全てを主にゆだねて走り抜くことができるのですよ。」と,彼らは声援を送ってくれているのです。「神が」罪を購って下さり,信仰をお与え下さったのです。確かに,日々の困難と向き合い,この中を信仰をもって進むことは,勇気の要ることです。先のアブラハムも,大きな不安の中を,未知の地へ向かって出発したのです。私達は彼らの場合とは違い,甦って今も共に居て下さる,主イエス・キリストによって守られ,導かれているのです。そのように生きた方々が私達の先達なのです。