説教(2022年11月月報より)

「私たちの国籍は天にある」 

寺島謙牧師

フィリピの信徒への手紙 3章17節~21節  

 今朝の礼拝は,聖徒の日の礼拝として捧げられます。この礼拝堂に掲げてある名札は,全て私共の信仰の先達方のお名前です。本日の聖書箇所(20節)に,「わたしたちの本国は天にあります。」と書かれています。「天」とは、神の御心が実現している所の意です。私共は今,地上の生を送ってはいますが,その私共の存在の根拠は全て神にあり,神に生かされているのです。それなのに我々は,日頃,天を意識しません。特別な折に,この事実を思い出すのです。ある牧師が説教で,息子を交通事故で亡くした父親が,「私の息子は何か悪い事をしたのですか。何故こうなったのですか。」と問うたという事を話されました。いざという時,人間は神に目を向けざるを得ないのです。
17節に,「また,あなたがたと同じように,わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」とあります。実際に信仰生活を歩むに当っては,先達や信徒の人々に目を向け,彼らを手本としなさい,と言っているのです。それらの人々の中に生き給うた神(キリスト)を見て,神を信頼し,その助けを信じて生きなさい,という意味でしょう。彼らを支えたもの,それは,主の十字架です。18節には,「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」とありますが,これは,必ずしも信仰をもたない人々だけを指すのではありません。教会の中の人々でさえ,さらに我々自身でさえ,時には,主の十字架を忘れて,「なぜですか,どうしてですか?」と問いつつ主の十字架を無視することがあるのではないでしょうか。十字架は決して,架空の詣ではありません。最も現実的な事実です。これを信じなければ,決して確かな歩みは出来ないのです。
 我々も,ともすれば神以外のものに,助けを求めがちです。しかし,ほんとうに我々を救えるのは,神のみであります。形のあるものは,いずれ消滅します。我々にも,いつかは死が訪れます。このような現実の中に,神御自身が来て下さった。そして,十字架によって救いをもたらして下さったのです。天に迎えて下さる道を,ひらいて下さったのです。ある説教で語られたことですが,牧師をしている父を実の父親だと信じて育った青年が,実はその父が義父だと知った時,心が乱れました。しかし,その父が,「我らの国籍は天にある。」という聖書の言葉を引用してさとした結果、血縁を超えた神の愛を知り,彼は後にキリスト教の伝道者になったとの事です。
 私共がならうべき信仰の先達の方々は,皆,この血縁を超えた神の愛を信じて生きた人達です。神は我々を決してお忘れにはなりません。顔を天に向けて上げましょう。これはここに居る全員の希望なのです。