10月5日

神と富とに仕えることはできない」
 寺島謙牧師
 マタイによる福音書 6章22~24節 

「体のともし火は目である」と主イエスは言われた。「体」というのは言うまでもなく人間の肉体を意味するが、人格を含むその人の命の有り様を表す。「ともし火」とは、その人の生き方、生活を明るく照らし正しい方向へと導く道標である。そのともし火を体に取り入れるのは「目」である。ある説教者によれば目とは、「私という人間全体の明かり取りである」と説明した。それ故に主は、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言われた。「目」とは、自分の命、生涯を本当に生かすともし火、希望の光が何であるかを見極める心の目を意味する。人間は被造物の中で唯一、神の似姿として象られ、神御自身から命の息を吹き入れられて生きるようになった。神を信じる信仰こそ「体のともし火」であり、人生を明るく照らす光である。だが、人間はその命の光である神に背き、ともし火を失い真っ暗闇の直中を歩む者となった。そして神以外のものを求め、それに仕えるようになった。しかし人間を本当に生かすものは神お一人の他にはない。神はその独り子をお与えになられたほどに、私どもを愛し、これを救われた。主こそ、我々が仕えねばならない神である。