「十戒」

出エジプト記20章1~3節

皆さんは神さまが、どういうお方であるか知っていますか。神さまを見たことがあるという人はいるでしょうか。私は教会の牧師ですが神さまを見たことはありません。聖書にも、神さまを見た人は一人もいないと書いてあります。私たちはこうして日曜日になると神さまに礼拝を捧げていますが、神さまは私たち人間の目で見ることが出来るお方ではないのです。モーセさんのことを学んでいますが、モーセさんも神さまを見たことはありませんでした。モーセさんはあるとき、燃え尽きることのない柴の木を見つけましたが、その柴の聞から、神さまは「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。それでモーセは「はい」と答えました。神さまの声だけがモーセさんに聞こえました。そしてモーセさんは神さまのお語りになる言葉に従って、エジプトに行ってイスラエルの民を奴隷の地であったエジプトから脱出させることが出来ました。目には見えない。でも神さまはモーセに大きな力をお与えになって、そして奴隷として苦しめられていたイスラエルの人々を救われたのです。

でも見えないものを信じるということは、私たちにとって難しいですね。イスラエルの人々にとっても不安でした。エジプトを脱出したイスラエルの人々ですが、そのあと荒れ野を40年も旅を続けなければなりませんでした。何にもない荒れ野で生活することはとても不安だし、恐ろしいことです。そのイスラエルの民を神さまは慮って、「十戒」を与えて人々の命を守ることを約束されたのです。十戒を見ると「・‥してはならない」と神さまから命令されているような感じがしますが、そうではないのです。十戒は神さまがイスラムルの人々を決して忘れない、私はどんなことがあってもあなた方を見捨てるようなことはしない。その愛を覚えているなら、この戒めを破るはずはないというメッセージなのです。そのことが今日の短い聖書の言葉の意味です。もう一度今日の聖書の言葉を読んでみます。「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である』」。神さまは御自分がどのようなお方であるか、自己紹介しているのです。私はあなたたちをあのエジプトの地、奴隷の家から救った神である。イスラエルの人々は自分のカでエジプトから脱出したのではないのです。モーセさんの力によることもでもなかったのです。目には見えない、でも神さまが力を振るわれて、奴隷として苦しめられ痛めつけられて命を失おうとしていた何十万のイスラエルの人々を全員、エジプトから助けた。導き出してその命を守られたのです。そのような大きな力をもってイスラエルを救われた、それが私だ、神だというのです。何故神さまはイスラエルを救われたのかというと、イスラエルの人々を愛しておられたからです。私はあなたを愛している。だからエジプトで苦しみ叫ぶあなたを救った。そしてこれからも私はあなたと必ず共にいてあなたを助け、守る。だからあなたは、私以外のものを神とするはずはない。私はあなたの神、あなたをエジプトの地から救い出したただ一人の神である。そのことを忘れないで欲しい、そのように神さまはイスラエルの人々に約束して、十戒をお授けになられたのです。ですから十戒は、神さまからのラブレターです。神さまがどんなにイスラエルを愛し、彼らと共に生きて下さり必ず力と希望を与えて歩ませて下さるお方であるか、その神さまの愛が十戒の背後に生き生きと働いているのです。

イスラエルの人々に十戒をお与えになられた神さまは、イエスさまを私たちに下さったお方です。大切な独り子を十字架にかけてまでも私たち罪人を赦して、「わたしは、あなたの神である。あなたは私の愛する子」と呼んで私たちの神さまとなって下さいました。このお方が私たちのことを忘れたり、見捨てたりするはずがありません。私たちはイエスさまの十字架によって救われています。神さまはどのようなときも私たちと一緒におられます。この神さまの約束を信じて今日から始まった一週間の生活を感謝して歩んで参りたいと思います。