「エジプトからの脱出」

出エジプト記13章17~22節

時が来て、神さまは波乱に満ちた人生を送っていたモーセを召し出します。エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの人々を導き出すために、モーセを遣わしました。

モーセはエジプトの王であるファラオの前に進み、神さまがイスラエルの人々を奴隷から解放し自由にするように求められていると告げ、解放を願い出ました。しかし、ファラオは「働き手がいなくなることは困ってしまう、それにそもそもなぜわたしが神さまの言うことをきかなければならないのだ!」と頑なに拒んだのでした。神さまはエジプトに対して十の災いを起こされます。神さまが生きて働いていることをファラオに示すためでした。降りかかる様々な災いにますます心を頑なにして、イスラエルの人々を去らせようとしないファラオでした。そこで、神さまはとうとう最後の災いを起こされます。エジプト中の初子(最初に生まれた子ども)が死ぬという衝撃的な出来事を与えたのです。けれどもイスラエルの家々は神さまに命じられた通り、子羊の血を戸口に塗っていたため、これが目印になって災いが過ぎ越したのでした。

エジプト中の初子がうたれ、ファラオの王子も例外ではありませんでした。さすがのファラオも観念して、ついにイスラエルの人々がエジプトから出ていくことを許しました。急いで脱出することになったイスラエルの人々は時間がなく、食糧を用意する間もなく、パンに酵母を入れずに焼いたのでした。これらのエジプトから脱出する一連の出来事を思い起こし、感謝し記念とするために「過越の祭り」「除酵祭」という祭りをずっと守ることとなりました。

さて、エジプトを去るように命じられたその晩、何十万というイスラエルの人々がエジプトを脱出しました。神さまは一晩中ずっと番をしてくださり、人々を葦の海へ通じる荒れ野の道へ導かれました。この導かれた道は普通とは違う遠回りになる道でした。神さまが、ペリシテ人が住む近道に導かれなかったのは「人々が戦わねばならないことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない」とお考えになったからです。神さまは、昼は雲の柱をもって進む道を導き、夜は火の柱をもって照らされたので、モーセを先頭に人々は昼も夜も進むことができました。

そして葦の海へたどり着いたとき、後ろからエジプト軍が迫ってきました。再び心を頑なにしたファラオがイスラエルの人々を追いかけてきたのです。人々は逃げられなくなって追い詰められ、エジプトから脱出させられたことに文句を言い始めます。モーセは人々に向かって「恐れず落ち着いて、今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。静かにしていなさい」と答えました。ここで奇跡が起こります。神さまがモーセさんを通して、海の中に道を作って渡らせてくださったのです。後から来たファラオの軍は海に飲み込まれてしまいました。こうしてイスラエルの人々はエジプトを無事に脱出することができました。

このエジプトからの脱出の出来事は最初から最後まで神さまの御手の中で行われました。すべて神さまの導きによって始められた救いの出来事なのです。ここから神さまが約束してくださった土地へ向かう旅はさらに40年も続きます。荒れ野での生活は辛く大変でした。しかし昼夜、雲の柱、火の柱を立てて道を示し、神さまがいつもそばにいて守ってくださっていました。

わたしたちの人生の歩みも同じです。罪を抱えるわたしたちですが、イエスさまの十字架によって神さまの裁きが過ぎ越されています。そして何度困難に遭おうともイエスさまがともにいてくださって歩むべき最善の道を備えてくださるのです。それは自分が考える道とは違う、遠回りする道を示されるかもしれませんが、イエスさまが必ず救って導いてくださると信じて歩みましょう。