「人を裁くな」
寺島謙牧師
マタイによる福音書 7章1~6節
山上の説教で語られた「人を裁くな」との主の教えは,弟子達と,そこに集まって来ていた人々に対しての言葉ですが,現在これを読む私達の心にも語りかけられた,心に強く響く言葉です。考えて見れば私達も,毎日のように人を裁いている。「人を裁くな」とは,私達に語りかけられた,主の言葉であり,命令です。神の御命令です。神に逆らう時,必ず神の裁きを受ける。これを避けなければなりません。私達はこれに気付かず,正に目の中に丸太があるような自分の罪に無関心です。そして神を忘れ,自分が罪人であることを忘れています。
旧約聖書に,記されている偉大な王,ダビデは良い例です。部下のウリヤの妻パテシバの美しさに心を奪われ,子を宿させ,ウリヤを意図的に激戦地に送って,戦死させ,パテシバを正式に妻としてしまいました。ダビデは,人妻を奪うという大罪を犯したのです。聖書には「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」(サムエル記下,11:27)と記されています。しかし何と言っても権力絶大な王のした事です。多分,諌める者は誰もいなかったでしょう。しかしナタンという人物がこれを諌めました。主に遣わされた預言者です。彼はダビデ王に例え話をします。「沢山の羊を持っていた,ある富める人が,ただ1匹の子羊しか持っていない人の,その1匹を取り上げてしまった。」この話を聞いた王は,その富める男に激怒して,「死罪だ。」と言います。するとナタンは言い放ちます「その男はあなただ!」そして神の言葉を伝えます。「剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。」神の裁きは厳しいのです。私達が信仰の偉人として敬愛するダビデの人間としての一側面です。その後,ナタンの預言通り,信仰者ダビデの家から,争いと戦さが絶えなかったことは,旧約聖書に書かれている通りです。
毎週の礼拝毎に私達が共に祈る「主の祈り」の5番目は,「我らに罪を犯す者を我らが許すごとく,我らの罪をも許し給え。」です。“許す”と“裁く”ば、互いに全く対比した言葉ですが,主はまた「許しなさい」と語られます。人間関係で悩んでいたペトロが,主に,「許すべきは7回までですか」と尋ねると,主は「7の70倍までも」と言われました(マタイ18:22)。限りなく許しなさい,ということです。同じ章には,主の例え話が出ています。1万タラントン(現価約600億円)の借金を帳消しにして貰った人が,これに比べて少額の100デナリ(現価約100万円)を貸していた相手に,返金を迫って投獄してしまった話です。主の十字架により,無限大の赦しを受けた私達人間が,心して聴くべき話であります。