説教(2024年6月月報より)

「聖霊を受けて歩む希望の道」

寺島 謙牧師

使徒言行録2章1~13節  

 今朝の礼拝は,聖霊降臨日の礼拝として捧げます。聖書にある通り,五旬節の日に一同が集まっている所で,この聖霊降臨が起きたのです。五旬節とは,モーセに導かれてイスラエルの民がエジプトを脱出した記念のお祭りである「過越しの祭」から,50日目を祝うもので,ユダヤ人全体にとって,非常に大切なお祭りでした。聖霊の降臨は,まさしく神の御業であったことを,聖書は語っています。
「突然,激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ,彼らが座っていた家中に響いた。そして,炎のような舌が分かれ分かれに現れ,一人一人の上にとどまった。」と書かれています。「一同」とは,12人の主イエスの弟子達で,彼らは,昇天され七目前からいなくなられた主を思い,孤独感と不安,恐れの中にあったに違いない。私共の個人的な生活にも,また教会の歩みにも,同様のことが言えるでしょう。主イエスを信じつつ歩むとはいえ,目に見えないお方を信じて従うということは、安易な事ではありません。しかし主は,私達にも聖霊を注ぎ,個人も教会もこれを信じる時,力を与えられて前進することが出来るようにして下さるのです。
 大きな物音を聞いて集まって来た人々は,さらに驚かされました。弟子達は皆,聖霊で満たされて,外国語を話し出したからです。「話をしているこの人たちは,皆,ガリラヤの人ではないか。」と書かれているように,当時ガリラヤは,文明から離れた地と考えられていたのに,そこで生活していた無学の人達が,いろいろな外国語で、神の偉大な業を語り出したのです。多くの他の文明の地(ユダヤ,アラビア,等)から来た人々が,驚いたのは当然です。弟子達の小さな集まりは,主の約束を信じて祈ることしか出来なかったのです。この小さな群れが,大きな業をなした。これは,神御自身がなした業です。私達もまた自分自身を,病気,多忙,無力などと言って,主に仕える業を避けてはなりません。競馬の競走馬も,馬だけで走って勝利することは出来ません。馬を操る騎手がいて勝利に導けるのです。私達の信仰生活も同様で,自分の力だけを信頼している間は,前進出来ません。私達は無力だからです。しかし聖霊の力と助けによって,キリストの証人とし七歩むことが許されているのです。
 先日の朝日新聞の天声人語に,天に召されたキリスト者の画家,星野富弘さんの記事が出ました。星野さんは,若き日に受けた重度の障害により,人生の殆どをベッドの上で過ごされましたが,マタイによる福音書を読んでキリストに救われ,全く動かない身体でキリストの証人としての生涯を全うされ,多くの人々を励ましつづけられました。私達にもこのような道が開かれているのです。