「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
寺島謙牧師
マタイによる福音書 5章43節~48節
今朝は,御一緒に平和聖日礼拝を捧げます。78年前のこの日に,広島に原子爆弾が投下されました。その3日後に,長崎にも。それらが,いかに悲惨な結果を生んだかは,我々のよく知るところです。今なお,ウクライナ,シリア,アフリカなどで,激しい戦いが行われています。何故,こんな争いが起こるのか。我々はこれらに対して,自らの無力さと愚かさを嘆かざるを得ません。
今朝の聖書箇所の原形は,すでに旧約聖書のレビ記19章に記されています:あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。この神の言葉を実行することは,我々人間にとって非常に困難なことです。先日,フェンシングの世界大会で,ロシアの選手に勝ったウクライナの選手が,敗者のロシア選手が試合後にさし出した握手の手を無視する,という事件が起きました。ウクライナの選手は失格になりました。誠に残念な事です。主イエスは,「敵を愛し,自分を迫害する者のために祈りなさい。」と語られました。「この言葉こそ,人類生存と,また世界平和のための鍵だ。」と言ったのはかの有名なアメリカのキング牧師です。アメリカの歴代大統領は皆,その就任式において,聖書に手を置いて,これに従うことを誓うのです。平和の問題は人間の問題,つまり,主イエスの言葉に従うことの出来ない存在である人間の問題であると言えます。まことに使徒パウロが述懐しているように,「善をなそうという意思はありますが,それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず,望まない悪を行っている。(ローマの信徒への手紙,7章)」
主イエスの言葉は続きます。「あなたがたの天の父の子となるためである」と。我々はいかにして神の子となることが出来るのでしょうか。元々,御神の姿に似せて創られた人間は,罪を犯して神に反逆し,神の激しい怒りを買い,その敵となってしまいました。神は,敵となった人間をどうされたか。それを知らせてくれるのが聖書です。神は実に御子を下さり,その十字架によって,敵たる人間を贖い救われた。敵を救われたのが,我々の父なる神です。その「子」となるためには,我々も,単に敵を憎むという常識の中に安住していてはなりません。その贖いと救いが完成するには,終りの日までの時を要しますが,現在も我々の困難も,苦しみも悩みも,全て神に覚えられていることを忘れてはなりません。平和は神が来たらせ給うのです。その意味で,神に信頼することが,平和の原点です。
我々も,目前の敵をゆるし,愛する業に召されています。自分が愛されたように。また,完全なものとなるように