「占星術の学者」
マタイによる福音書2章1~12.節
先々週はCSクリスマス礼拝・祝会、先週は教会のクリスマス礼拝・愛餐会が行われ、楽しくイエスさまの誕生を祝うことができました。CSの子どもたちもわれわれ教師も、ペープサートの劇を通して、教会員の方々にその存在を知っていただけて、とてもよかったと思います。しかし、その歩みは、毎週の礼拝に原点があると思います。子どもがいなくても、礼拝が守り続けられていること。その歩みを守り導いてくださるイエスさまに、まず、感謝したいと思います。
ところで、今日は、3人の博士が登場します。先週は羊飼いたちのお話を千都子先生がしてくださいました。イエスさまの誕生が初めて世の人々に知らされたのは、いつもは虐げられて隠れたように生活している羊飼いたちを通してでした。そして、イエスさまの誕生が始めて異邦人、ユダヤ人以外の世界中の人々に知らされたのは、この博士たちを通してということになります。
つまり、私たち日本人が教会でイエスさまに出会うことができるのは、この博士たちのおかげです。そのことを心に留めて今日はお話をしたいと思います。
3人の博士とわたしは当たり前のように思っていましたが、聖書には人数に関する記述はありません。「占星術の学者たちがエルサレムに来て、・・・」と先ほどみんなで読んだ聖書に書かれている通りです。3人という風に言われるようになったのは、中世になってからのことで、「黄金」「乳香」「没薬」の三つの捧げものから、3人とされ、メルキオール、バルタザール、カスパールという名前も付けられました。そして、メルキオールが老年、バルタザールが壮年、カスパールが青年という3世代の代表となり、ヨーロッパ代表の老年メルキオール、アジア代表の壮年バルタザール、アフリカ代表の青年カスパールという大陸をも代表しているという設定も生まれたそうです。
3人と星との出会いは、東の国ということになっています。おそらく古くから文明の中心地であったメソポタミアの辺りで3人の博士は星の研究をしていたのでしょう。ところが、ある時期から、普段見慣れない星の出現に気が付きました。その星は、今では彗星と呼ばれるものであったのかもしれません。初めはかすかな明かりだったのがだんだんと輝きを増して3人の心をひきつけていきました。どんなに知恵を絞って説明しようとしてもそれができない、しかも、心をどきどきとさせる光でした。「この星の出現は何を意味しているのだろう。」というのが、3人の議論の中心となったように思います。以下は私の推測ですが、「これは特別な王の誕生を示している星だろう。」と言い出したのが老年メルキオール。「この星が見える方角を詳しく調べて、星を追いかける旅をしてみましょう。しかし、果てしなく遠い旅になるかもしれません。」とメルキオールを後押ししたのが、壮年バルタザール。「わたしも連れて行ってください。長い旅になるなら、たくさんの食料や水、荷物が必要になるでしょう。わたしが早速手配します。」と惜しみなく協力したのが、青年カスパールであったかもしれません。
そして、3人は旅に出ることとなりましたが、メソポタミアの地からユダヤまでの行程は地図で見るとざっと2000キロメートル、その間はほとんどの地が砂漠で、ラクダを使っての旅になったと思われます。ラクダは一日40キロメートル進むことができるそうですから、休まずに進んだとしても50日。2か月はかかる計算になります。飢えや渇き、疲れとの闘い。病気にかかることもあったかもしれません。しかも、冬の行軍ですから、重装備も必要だったことでしょう。もう進みたくない、引き返そうか、そんな誘惑も起こったことでしょう。しかし、3人は、救い主に会いたい、自分の目で見たい、本当の神さまを礼拝したい。その一心で、来る日も来る日も旅を続けたことと思います。そして、とうとう、エルサレムの町に到着しました。始めに向かったヘロデの宮殿には、御子はおらず、星を頼りにさらに進みました。そして、ベツレヘムの家畜小屋の前で星は止まり、そこで、とうとう御子イエスさまに出会うことができたのでした。
その時、3人の博士は御子の前にひれ伏したと書かれています。そして、故郷から持ち寄った宝物の黄金・乳香・没薬を贈り物としてイエスさまに捧げました。その場面はページェントで何度も演じたり見たりしてきましたので、わたしの頭にしっかりと入っているのですが、3人の心情、心の内まではあまり考えたことがありませんでした。今回のお話をするにあたって、私なりに考えてみたことをお話させてください。
まず、老年のメルキオールです。
・あの不思議な星は、やはり特別な王の誕生を知らせてくれたので、間違いなかった。ここまで、苦しい旅を続けてきたが、御子に出会い、礼拝できたことは、人生最高の喜びじゃ。わしはここまで生きてきたうちに、数々の罪を犯してきた。しかしその罪をこの御子が赦してくれる。そんな気がしてきた。この御子は救い主に違いない。わしもここまで生きてきてよかった。
次に、壮年のバルタザール。
・この平安、心の安らぎは何だろう。今まで、頼りにして拝んできた神さまの前ではこんな気持ちになることはなかった。この方は、本当の神さま、救い主に違いない。このうれしい知らせを何とか故郷の者たちに伝えたいものだ。
最後に、カスパールです。
・メルキオールおじいさんやバルタザールおじさん、偉く神妙で安心しきった顔をしているな。この赤ちゃんは、きっと特別な方に違いない。自分も穏やかな気持ちになってきたぞ。今までの旅は厳しかったし、帰りも大変な旅は続くだろうけど、この赤ちゃんに出会えた喜びがあれば、頑張って進めるぞ。そうだ、帰ったら、故郷アフリカの両親兄弟にもこの喜びを伝えるぞ。
勝手な想像をしましたが、3人の博士は喜びに包まれて、帰っていきました。ヘロデから頼まれていた救い主の情報をしらせよとの命令は無視して、自分たちの故郷へ帰って行ったのです。ヘロデはそのことに腹を立て、ベツレヘム周辺の2歳以下の子供をみんな殺してしまうという暴挙を起こしました。ページェントの最後にそのような恐ろしい出来事が起こって話が終わるということには、いつも違和感を感じていました。クリスマスのうれしい出来事の最後に水を差すような怖い出来事がどうして起こったのか、聖書には預言が実現するためであったとしか書かれていません。イエスさまの誕生という「うれしい知らせ(出来事)」が、その当時のユダヤでは決して周りから喜ばれることのない出来事であったことをこの出来事は示しているように思います。しかし、3人の博士やその前にイエスさまに出会った羊飼い達の力によって、救い主誕生の知らせという種が、ユダヤにもそして異邦人の地にもまかれました。そこから、キリスト教が世界中に広がっていったことを考えると、私たちの想定を超えた神さまの御業には驚かされます。どんな出来事にも意味があって、神さまのご計画は進められ、み旨がかなえられていく。そのことを心に刻んで、一喜一憂することなく、してしまうのですが、神さまのみ心を信じて、落ち着いて年の締めくくりをして新しい年を迎えられますように、願います。
最後に祈ります。ご在天のイエスキリストの父なる神さま。今日は、3人の博士の旅を学びました。博士たちが辛い旅を続けることができたのは、御子にお会いして、礼拝したいという強い思いがあったからに違いありません。私たちの人生も同じです。神さまの身元に招かれるまでが人生の旅です。辛いことや苦しいことがあっても、神さまは博士たちを導いた星のように、私たちを正しく導き、疲れた時には支え、おぶってでも道を歩ませてくださいます。今年一年元気に過ごせたことに心から感謝し、また来年もそれぞれに与えられた道を歩むことができますように、お願いします。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。