降誕節第2主日(1月3日)礼拝説教より
『初めに言があった』 寺島 謙牧師
新しい年を迎えました。新たに未知の世界に歩み出す時です。
「初めに言があった。」とは,全ての初めのことです。旧約聖書の第一声は「初めに,神は天地を創造された。」であり,これは,世の始まりを語っています。神は全てを創造され,現在の我々と世界に関する全て一我々が受ける試練や苦難をも含めて-に,その御手を及ぼしておられます。言(ことば)とは,主イエス・キリストを指しています。つまり、主イエス・キリストは,世の初めから,神とともにあられ、御自身が神であられたのです。神は,主イエス・キリストを通して,御自身をあらわし給いました。この事実を我々は確認することは出来ませんが,これに触れて,真理として受け入れることが出来るのです。言(ことば)とは,ギリシャ語の「ロゴス」に当たり,我々の思いを伝えるものであると同時に,「真理」を意味します。この「言」に人格があり,世に降られた。これこそが,主イエス・キリストです。そして身を低くされ,御自身から語りかけられ,共に荷を負い,苦しみを共にされたのです。時には怒り,時には涙して我々に向き合われたのです。
我々は全て,悩みある者ではありますが,新聞紙上に現れてくる甚だしい苦しみの中に置かれている人々には,心が痛みます。コロナ感染は,治まる様子を見せません。頼りにしていた者を失った人もいます。神はこの試練を通して,人間が神に生かされていることを示し,主イエス・キリストに目を向けさせる御思いなのではないでしょうか。
この言の中に,命があった。そしてそれは,人を照らす真の光でありました。死に向かって歩み,悩み多い生を生きる人間に希望を与える光です。「天地創造」の物語は,歴史的には,バビロンの捕囚から,人々が祖国に帰った時に書かれたとも言われます。内容は希望に溢れ,神が共におられることが明らかに語られています。この神が,人間を贖われた。「贖う」とは,値を払って買い戻す,という意味です。主イエス・キリストの十字架は,父なる神にとって耐え難い苦しみであったのです。我々人間の罪を赦し,救い出すための御苦しみでした。主イエス・キリストは,闇の中の光です。この光は、闇が深ければ深い程,明るく照り輝きます。
牧師はこれまでの約20年の牧会の中で,多くの方々の臨終に立ち会ってきました。現世的には,全く何の希望もないこれらの人々が,最後まで真剣に生きようとしている。この心を支えているのは何だろう,と思います。キリストが,内に生きてい給うからです。我々の内にも,キリストは生きてい給います。これを信じて,この新しい年も歩みたいと願っています。(磯村滋宏)