「キリストはわたしたちの平和」
寺島謙牧師
エフェソの信徒への手紙 2章14~22節
今朝の礼拝は,平和聖目礼拝として捧げます。第二次大戦終結80年の節目を迎えました。平和について考えて見たいと思います。世界では,今なお戦争が絶えません。いや,むしろ戦争が増大しているように思えます。平和は,どこにあるのでしょうか。
本日の聖書箇所には,「実に,キリストはわたしたちの平和であります。Jと書かれています。一人の人,キリストが,敵対する二つのものを一つにし,敵意をなくした,ということです。しかし,依然として敵意は今もなお現存する。イスラエルとパレスチナ,ウクライナとロシア。聖書の時代にも,このような対立があり,それが今も続いていると言ってもよい。ユダヤ人と異邦人です。ユダヤ人は,神から十戒を授かった誇り,つまり選民としての誇りを今もなお持っているようです。バレネチナを抹消しようとさえ考えているように見えます。和解はあり得るのか。あるのです。主イエス・キリストにあるのです。「人には出来ないが,神には出来る。」と言われたキリストに,平和があるのです。平和のために人間同士で話し合うのは,勿論必要です。しかし,それでは平和の実現は不可能です。どうしても主の十字架が必要なのです。15節には,「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」とあります。かつて,ユダヤ人達は,神から与えられた戒めを,倣慢の罪から血の通わないものにしてしまいました。これを神は,主イエス・キリストの十字架の死を通して壊されたのです。
皆が停戦と平和を願っています。それにも関わらず,敵意が生まれ,争いが生じるのです。一人一人が造りかえられなければならないのです。一人一人の内側に原因がある。そのためには,どうしたらよいか。その第一は礼拝です。神の御前における,真の礼拝です。
ある牧師が質問をうけたそうです。「アガペー(神の無私の愛)とは,何ですか?」。牧師は「神の意志です。」と答えたそうです。神は平和を願い,御自身から遠い者も,また近い者をも,一つにされたのです。これは正に教会の姿です。色々な面で違っている者が,イエス・キリストの下で,一つになっている存在です。一つの家族,神の家族です。そこでさもイエスが要石となって,巨大なアーチを支えているのです。
大伝道者パウロは,常に自分の内に,主イエス・キリストが生きて宿っておられること.を意識して,きびしい伝道の業を続けたのです。色々な事があったでしょうが,常にイエス・キリストの十字架こそが,真の平和をもたらすことを忘れなかったと思われます。平和に関しても,神への信頼が大切です。