皆さんには赦せないと思う人はいますか?または今までに誰かのことを赦せないと思ったことはありますか?誰しも多かれ少なかれ、誰かに腹を立て赦せないと思うことはあると思います。私にも覚えがあります。
誰かに対して赦せないと思う気持ちにとらわれることは、自分にとってとてもしんどいことです。自分ではどうすることもできない怒りの気持ちは何をしている時も、いつも心のどこかに引っかかったままになります。私がそんな怒りのただ中にあった時、写真に映った自分の顔を見てぞっとしたことがあります。人相が変わっていました。誰かを赦せない。そんな思いを持ち続けると、こんな顔つきになってしまうのかと思わされたことを覚えています。誰かを赦せないという気持ちにとらわれた時、私たちはどうしたらいいのでしょうか
あるときペテロが、イエス様に質問しました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯しましたら、何回赦すべきでしょうか?7回までですか?」イエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」と言われ、ひとつの例え話をされました。
ある国の王様が家来たちに貸したお金を返してもらうために家来達を集めました。一万タラントンを王様から借りている家来が、王様の前に連れて来られました。この1万タラントンとは、今のお金の価値にすると、約6000億円だそうです。人が一生をかけても到底払いきれない金額です。家来はブルブル震えながら小さな声で、「私はお借りしたお金をお返しすることはできません。」と言いました。王様は自分も妻も子も自分の持ち物も全部売って、返すように家来に命じました。家来は王様の前にひれ伏して苦しそうに言いました。「王様何とかしてお返しします。もう少し待ってください。」と
王様はしきりに願うこの家来を哀れに思って、家来を赦し、その借金を帳消しにしてやりました。家来は「あー、王様ありがとうございます。このご親切は決して忘れません。」と大喜びで言い、転ぶように駆け出しました。すると、外で、家来は自分に100万円の借金をしている仲間に会いました。家来はその仲間の首を絞めて「貸してあるお金を返せ。」と言いました。
仲間は家来の前にひれ伏して「どうか待ってくれ。必ず返すから。」と必死に頼みましたが、家来は仲間の言うことを聞き入れず。仲間を引っ張って行き、お金を返すまではと牢屋に入れてしまいました。それを見ていたほかの仲間たちはとても心を痛めて、この事件をすべて王様に話しました。
これを聞いた王様はすぐに家来を呼びつけて言いました。「私はお前の借金を憐れに思って赦してやった。お前が必死に頼んだから、借金を全部帳消しにしてやった。それなのにお前は何をした?ここを出て、すぐにお金を返さない仲間を牢屋に投げ入れた。なんという悪い奴だ。なぜ私がしたように、親切に仲間を赦してやらなかったのだ。わたしがお前にしてやったようにお前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」そして王様は怒って借金をすっかり返済するまでと、この家来を牢屋に入れてしまいました。
このたとえ話の王様とは誰でしょう?それは「神様」です。家来とは、「私たち」のことです。1万タラントンの借金とは、わたしたちの「罪」のことです。一生かけても到底払いきれない大金は、自分ひとりでは払いきれません。自分の罪は、自分の力ではどうすることもできないということです。
このたとえ話をお語りになったイエス様は、その後、十字架にお掛りになり、死なれることによって、私たちの罪を赦してくださいました。これが神様の愛です。払いきれない多くの借金のように、決して償うことのできない私たちの罪を神様は独り子イエス様の命によって無償で赦してくださいました。ただ、神様が、無条件に私たちを赦してくださるがゆえに、私たちの罪を赦してくださっているその憐れみは、とても大きいのです。このように神様に赦されているのに、人を赦すことが苦手な私たちです。けれども人を赦せないと思う時、自分自身の罪を思い。そんな自分が神様に赦され、生かされていることを思い出したいと思います。そしてすぐには人を赦せなくても、「そのような弱い私を赦してください。神様の愛に倣って、人を赦せるように変えてください。」と祈りたいと思います。
ローマの信徒への手紙の12章9節には、「キリスト教的生活の規範」として書かれています。17節には「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち。自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること。私が報復する。』と主は言われる。」と書いてあります。「自分自身の弱い心に負けそうな時、自分で何とかしようとせずに、聖書の御言葉に謙遜に聞き続けたいと思います。神様に祈る時、神様は必ずその祈りを聞いてくださり、私たちを神様のみ心にかなうものへと導いてくださるはずです。
祈ります。私たち仲間を赦さない家来の例え話から、改めて私たちは神様に無条件に赦され、生かされていることを教えられ感謝します。神様に赦されながら人を赦すことができない私たちです。み言葉を謙遜に聞き、たがいに赦し合うものへと変えていただけるよう祈ります。新しい週の歩みをどうかお守りください。アーメン。