「私はあなたのことを知らない」
寺島謙牧師
マルコによる福音書 14章66節~72節
私たちの毎日の生活には,色々な事が起こってきます。楽しく嬉しい事と共に,恐れや不安,悩みも襲ってきます。先日大きな手術後の.後遺症と付き合いながら生活をしておられる高齢の会員の方が,「神に生かされていることは,感謝なことですが,同時に大変なことです。」と話されました。信じて生きることの厳しさです。ほんとうに神を信じて生きることは,私たちには非常に困難なことです。
ベトロは,元々はガリラヤ潮で漁をして生きていましたが,主イエスに招かれて一番弟子となった人です。主イエスが捕えられて大祭司の館で裁判を受ける前には,「みんながあなたに躓いても,私は決して躓きません。」と言い切った彼ですが,主が捕らえられると主を見捨てて逃げ出しました。しかし彼には,一番弟子としての誇りと自負があったのでしょう。思い直して,その館まで帰ってきました。だが彼には依然として,捕まって殺されることへの恐れが消えませんでした。出来るだけ身を隠していたかったのです。皆と一緒に小さくなって,火にあたっていた。ところが,館の女中の一人がペトロに気付き,「あなたも,あのナザレのイエスと一緒にいた」と言い出しました。その瞬間,ベトロをとらえたのは自己保身,つまり,そのためならば主イエスの弟子であることも否認し,キリストヘの信仰も捨て去ってしまうという不信仰でした。「あなたが何を言っているのか分からない。」と即座に否定しました。その時鶏が鳴いた。さらに女中は,「この人は,あの人たちの仲間です。」と言い出したので,ペトロは再び「そんな人は知らない。」と相手の言葉を打ち消したのです。しかし今度は,まわりの人々が,「確かにお前はあの連中の仲間だ。」と言い出したので,ベトロはたまらず,呪いの言葉さえ口にしながら,「そんな人は知らない。」と誓い始めました。この時,鶏が再び鳴きました。ベトロは,「鶏が二度鳴く前に,あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」とイエスが言われた言葉を思い出して,いきなり泣きだした,と聖書は語っています。
私たちもベトロのように,信仰を厳しく問われることがあります。それは,試練や苦難の時です。私たちは極力これを避けたいと思う。しかし,これらに意味があるとするなら,自身の一切を安心して委ねることの出来るものは,天の父なる神以外にはないことを知らしめられることでしょう。苦難を通して神は私たちに出会われるのです。主イエスの祈りによって,ペトロは信仰をとり戻しました。信仰は,決して自力で得られるものではありません。私たちの救いのために,十字架上で死んで下さった,そして今も私たちのために祈っていて下さる,主イエス・キリストからの賜物に他なりません。