「主イエスの復活」
磯村滋宏兄
マルコによる福音書16章1~8節
主イエス・キリストの御生涯に関して,そのお生まれ、ご活躍、十字架上での死、埋葬、これらについては歴史的事実として,つまり我々の理性と常識に反しない事実として受け入れることが出来る事柄であります。そしてて、現に、一般に受け入れられていると思われます。約2000年前にイエスという名前の,理想的な人物,つまり,歴史上唯一無二の最高の人物がユダヤに生まれた。特別に教育を受けたわけでもないのに,当時のユダヤの宗教界の形骸化を批判して対立した。そしてついに,捕らえられて,十字架にかけられて亡くなった。しかし,その行為と言葉が,あまりにも完全で崇高で,非の打ち所がない為,その教えが今や全世界に及んで,事実上,人類は,イエスの影響を多大に受けている。年代も「西暦」で呼ばれる。これは、イエスの誕生を区切りに定められています。(BC・とAD)です。
また,世界中の人々の日々の区分が,7日毎に定められているのも,聖書に基づいている。今やイエス・キリストを軽んずることは,文明圏では許されない事であります。イエス・キリストを尊敬することは,今や世界の常識となっていると言ってもよいでしょう。アメリカの大統領の就任式では、新大統領は聖書に手を置いて誓うことになっています。ここまでは,これでよいのです。
しかし、ここでイエス・キリストが甦って,今も我々と共に居給うという事実,つまり復活の事になると,事態は全く違ってくるのであります。多分にこれは作り話だろう。たいへんよい話ではあるが、人間の信仰心が生んだ創作だろう。死んだ人間が生きかえるはずはない。こういう見方が,逆に常識になっているかもしれません。しかし,キリスト者として立つ我々には,これこそが,信仰の中心であります。ポイントです。本当はどうなのか。
主イエス・キリストの復活は,まぎれもない事実であり,真実であります。キリストを信じるとは,その復活を信じることだと言っても過言ではないかもしれません。受け入れ難いこの事実を信じればこそ、今まさに、主キリストが生きて我々と共にあり給い、我々を慰め、助け、導き給うとを信じて歩むことができるのであります。私共の信仰によれば、「復活」というのほ,単に死んだ者が生きかえることではない。そうだとしても,またいずれ,死を迎えなければなりません。だから,復活とはそういう意味ではありません。復活とは「死」というものが無くなった。再び死ぬことはなく,永遠の命を得ることです。聖書は,そう語っています。我々は,これを信じるのです。古来から幾多の人々の論ずる所となったこの問題を,この私自身が信じ,受け入れている根拠を身近な例で三っつ挙げてみましょう。
まず第一は,皆様方お気付きのように,本教会の過ごとの聖日礼拝の折り,寺島牧師は,礼拝前の祈りの中で,必ずこのキリストの復活にお触れになる。主の復活こそが,我々の信仰の根拠であるとの確信でありましょう。これが第一です。
第二も,牧師の証言であります。本教会の礼拝説教をして下さったこともある、伊予長浜教会の筧牧人牧師。この方が書かれた短い文章を読んで感動したことがあります。その中で筧先生は,謙虚な言葉を並べておられますが,御自分が,クリスチャンホームでお育ちになったのに仏教大学を卒業なきったことを証しされると同時に,自分が尊敬する牧師が,主イエスの復活が真実であることを放され、これを愛け入れて,主が今,ここに居られることを信じるようにさせられたことを,証されておられるのです。私も,これにならわざるを得ません。
第三は19世紀から20世紀にかけて活躍した,スコットランドの改革派の著名な牧師の話であります。この方は,知る人ぞ知る世界の神学界の大物でありますが,ある時,書斎の中で大声を出して立ち上がって,「主は,ほんとうに,甦り給うた!!」と叫んだと伝えられています。恐らくこのJamesDennyという神学者の頭の中の,なかなか拭い切れなかった一片の疑いの雲が晴れて,主の復活が現実のものとなった瞬間だったのだろうと,私は想像いたします。とにかく,主の復活の出来事は,我々の信仰の,中心的な事柄であると同時に,「信じるか信じないか」という事の,いわば真剣勝負とも言える事柄を我々につきつけるものであります。
聖書に目を向けましょう。まずは・主イエスの生前に親交のあった女性達が出て来ますが.彼女達にとって,イエスの復活自体,全く思いもよらぬ,予想すらしなかった気味の悪い,恐ろしい事であったに違いありません。男達は、ダメだったのです。皆逃げて行ってしまった。女性の中の一人,マダダラのマリアほ,主イエスに悪霊を追い出していただいて救い出され,主イエスを心から慕っていた人です。このマリアと,あと二人の女性が,せめて主の遺体の葬りをしようと,墓に出かけましたが,まずは,入口をふさいでいる大きな石を動かさねばなりません。どうしたらよいか。この時,彼女らほ絶望的な気分だったでしょう。これまで頼りにしていた主イエスほ,亡くなったし,これから墓に行っても、入り口の石を動かせないだろう。ムダかもしれない。恐らく絶望的な気分だったでしょう。しかし,現実ほ,そうではなかった。入り口の石は取り除けてあった。主イエスの代わりに中に若者がいた。そして言ったのです。「あの方は復活なさって,ここには居られない。行って弟子達とベトロに告げなさい。『あの方は,あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。』と言った。彼女達には,白い衣を着た幽霊のように見えたでありましょう。とにかく,こわかったでしょう。若者の言葉を聞くどころではなかった。聖書には、「逃げ去った」,「震えあがった」「正気を失っていた」,とあります。我々だって、こんな事に出会ったら,同様な事になるでしょう。私は,まだ幽霊に出会ったことほありませんが,こういう事が今も実際にあるとは思っています。しかし,実際に出会ったら,多分,怖いことだろうと思います。
とにかく,非常にこわい事だったので,女性達は,三人で共有したこのことを,誰にも言わなかったのであります。一連の描写は,実にリアルです。事実として受け入れる以外にほありません。造物主ほ,「無」から「有」を引き出される方であります。
さて,もう一つ,この箇所で注意すべき事があります。若者は,「よみがえられた主イエスは,あなた方より先に,ガリラヤへ行かれる。」と言ったのです。「あなたがた」とほ誰のことですか。弟子達、特にベトロのことです。つまり,主イエスを捨てて,逃げ出した連中の事です。主イエスは,この連中よりも先にガリラヤに行って,彼らを待っておられる,というのです。あくまでも、慈しみ深いイエス・キリストであります。それでもなおかつ,人々は、これを信じなかった。11節に,はっきりと書かれております。しかし、彼らはイエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。いくら何でも,死人がよみがえるほずがない,という考えを拭い切れなかったのでありましょう。
ある牧師は,その著書の中で,ここの箇所を読んで.ドストエフスキーの有名な「罪と罰」という作品の一場面を思い出した,と書いておられます。私も,学生時代に読んだことがあります。ラスコールニコフという青年がいました。世の中には特別に選ぼれた者がいて,これらの人達は,世の中で全く不要の人、役立たずで,ましてや、害を及ぼしている人を殺してもよいのだ,という思想にとりつかれていて,自分はその選ばれた者のひとりだと思い込んでいた。そこで,ついにこれを実行します。高利貸しの老婆を殺して,その所持金を奪って社会に役立てようとしました。しかし、勝利者にはなれなかった。煩悶の末に自首する。一方、ソーニャという女性がいます。この人は,ひどい家庭に育って,娼婦に身を落としてはいますが,一方で,純粋で堅い信仰をもっています。ラスコールニコフは,偶然,旧知のこのソーニヤに出会い,彼女に頼る,つまりは彼女の信じているキリストに助けを求めます。彼女に,聖書を読んでくれ,と頼みます。ソーニャが読んだのは,ラザロの復活の箇所でした。(ヨハネによる福音書11章)。
神のカは、死者を生き返らせることも出来る。「ラザロよ,出て来なさい。」という有名な主イエスの言葉を,ソーニヤはカを込めて読んで聞かせます。この後も,いろいろと紆余曲折はありますが,この時の主イエスの呼びかけの声は,神の戒めを無視して敗北したこの青年を立ち直らせたのだ,と作者は言っているのであります。
人間社会の進歩,とりわけ自然科学の進歩には,目を見張るべきものがあります。しかし,「生命」というもの,これだけは人間のものではなく,御神のものであります。今朝はこの事を,聖書を通して学びました。我々,一人一人生まれたのも,また復活するのも,神のカによるものです。いずれも我々から見れば、奇蹟なのです。ヨハネによる福音書6章28~29節には、「神の業を行うためには,何をしたらよいでしょうか』と言うと,イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること,それが神の業である』」。このように書かれています。主を信じ,またその復活を心から信じて歩みたいと願うものであります。
これで今朝の説教を終りにしたかったのでありますが,準備を終えた後,私の言いたい事を,短く適切な言葉で語っている一文に出会いました。これを是非一言,加えきせていただきたい。
それは,我々一同におなじみの,この教会に昨年度まで在籍された,現在,久万教会の主任教師代務であられる松山ベテル病院の佐々木真理チャプレンの書かれた一文であります。(今年度の「週ごとのみ言葉2025』の26頁、下段)このように書かれています。
『さで,中にほ,聖書からそう言われても,どうしても信じられないという方も居られるでしょう。もしかしたら,そのような方は、「信じる」ということ、そのものを取り違えているかもしれません。聖書が語る「信じる」とは,単に「疑わないこと」ではありません。たとえ疑いが残っていても,それでもイエス・キリストに向かって「助けて!」と叫ぷ。それが聖書にの言う「信じる」の意味です。「イエス・キリストは生きている」という聖書の言葉を疑ってしまう自分がいても,それでも,苦しさのあまり「イエスさま助けて」と叫ぶなら,私たちは生きているキリストを信じているのです。そして実際キリストは生きていて私たちをすくうのです。』このように書かれております。
聖書に書かれている,信じ難い事柄と向き合って生きる我々に,大きな慰めを与えてくれる言葉だと思います。感謝と勇気をもって,歩み続けたいと願うものであります。