「イサクとリベカの結婚」
創世記第24章1~8節
今皆さんと一緒に読ませていただいた聖書の箇所は、アブラハムが最も信頼する僕に大切な使命を授ける場面です。アブラハムはこの時、すでに140歳という高齢になっていました。アブラハムが100歳の時にやっと願いが叶って妻のサラとの間に息子が生まれました。その息子イサクもすでに40歳となっていた時の話です。アブラムは、75歳の時に神さまから召命を受け、住み慣れたハランの町を出発しました。カナンの地に移り住むようにという神さまからの命令でした。飢饉に遭い、一族みんなでエジプトに逃れる場面もありましたが、アブラムは神さまから示された地カナンの(ヘブロンという)町に移り住むことができました。99歳の時のことで、その地で神さまから約束を授かることができました。「私はあなたと契約を結び、あなたを多くの国民の父とする。私はあなたとあなたの子孫とにこのカナンの全地を永遠に与える。そして、私は彼らの神となるだろう。」という約束で、名前もアブラハムと名乗るようになったのです。
しかし、アブラハムにはまだ一つ大きな気がかりなことがありました。それは妻であるサラとの間に子どもがいないということでした。後継ぎがいないという大きな問題です。ところがその問題も神さまが解決してくださいました。アブラハムが100歳になった時、妻サラがイサクを出産したのです。サラも高齢のおばあさんであり、神さまの恵みがなければ、絶対に実現することのない恵みであったのです。ところが、アブラハムの気がかりはさらに続きます。今度は待ち望んだ息子のイサクが40歳になったのに、まだ奥さんがいないということでした。アブラハムはその当時なんと140歳となっていたという計算になります。アブラハムは、決心して行動に移します。家の全財産を任せていたと言われる一番信頼していた僕を呼び寄せ、誓いを立てさせます。それは、私の息子イサクの嫁になる人を見付けてきなさいという大変重要な使命でした。しかも二つの条件がありました。今住んでいる町カナンの娘は駄目である。わたしの一族の住んでいるアラム・ナハライムのナホルの町へ行ってそこで見つけること、それともう一つは、イサクをそこに行かせることはできない。その娘をこのカナンへ連れてきなさいということでした。
僕は、主人のラクダの中から十頭を選び、高価な贈り物をたくさん積みこんで、ナホルの町に向かいました。直線距離で600キロメートルに及ぶ長距離の旅になります。松山から東京までの距離とほぼ同じになります。ラクダを使った長距離の旅では、時速4~6キロメートルだそうですから、一日10時間歩いたとして一日60キロメートルくらいが限度でしょう。休まず進んだとしても10~15日はかかる計算になります。しかも、無事にナホルの町に着いたとしても、たくさんいる娘さんの中からイサクのお嫁さんになる人をどうやって見つければよいのか、もしうまく見つかったとしても、その娘さんが全く知らない土地であるカナンにどうすれば来てもらえるのか、僕にとっては、考えれば考えるほどにその困難さに頭を抱え込んでしまいそうだったでしょう。しかし、聖には、そのあたりの旅の苦難や僕の苦悩には全く触れられていません。聖書では、続きの24章11節に次のように書かれています。読んでみます。(11節~21節 朗読)
僕は、水を与えてくれた人、しかもラクダにも水を飲ませてくれた人をイサクのお嫁さんと神さまがお決めになった方とさせてくださいと祈ったのです。この僕の祈りは旅の前から考えていたのではないかと教案には書かれていました。そうかもしれません。でも、私が僕であったとしたら、半月もかかった旅でのどが乾ききっています。ラクダのこぶもどんどんしぼんでしまっています。こんな状態で、町の中を歩き回ってお嫁さんを選ぶなんてことはもう無理です。水を飲ませてくれる優しい人、10頭のラクダにまで水を与えてくれる献身的な人、そんな人が現れてくれたら、どれだけ救われるだろう。そんな人こそ、イサクのお嫁さんにふさわしい。どうかそんな人が現れますようにと、藁をもつかむように祈ることでしょう。すると、祈り終らないうちに、際立って美しい娘が現れ、水瓶の水を何度も組んで僕とラクダたちに飲ませてくれたのです。しかも、その娘は、アブラハムの兄弟ナホルの孫にあたる娘でした。アブラハムの親族だったということになります。ここまで読むと、神さまがその娘に出会えるようにすべて用意してくださっていたことが分かります。アブラハムが僕に旅立つ前に「その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」と話していた通りでした。さらに、驚くことが続きます。その娘「リベカ」の家に行き、イサクのお嫁さんに下さいとリベカのお父さんであるベトエルと兄のラバンにお願いしました。すると、「このことは主のご意志ですから、わたしどもが良し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。」と願いを快く聞き入れてくださったのです。僕は、明日アブラハムのいるカナンに向けて出発すると言います。ベトエルとラバンはせめて10日ほどは手元に置かせてほしいと頼みましたが、僕は、「旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから、帰らせてください。引き止めないでください。」とその願いを拒みます。最終的にはリベカ自信に聴いてみましょうということになり、リベカに「お前はこの人と一緒に行きますか。」と聴くと、リベカは「はい、参ります。」と答えたのです。
この話を読んでいると、マリアさまのことを思い出しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」という有名な言葉です。リベカもマリアと同じように、神さまのご計画を受け入れ、そのために自分を捧げようとしました。自分に及ぶと思われる苦労や苦難に対する不安は勿論あったことと思われますが、神さまが守り導いてくださることを信じ切る信仰の深さを知ることができます。そういえば、僕だって同じです。僕は、無事リベカを連れて、アブラハムの住むカナンの地に戻ってきました。その時、イサクは、夕方暗くなっていたのに、野原を散策していました。するとラクダの群れが歩いてきました。ラクダに乗っていたリベカは、イサクに気付くとラクダを降り、「あの人は誰ですか。」と僕に尋ねました。僕は、「あの方が私の主人です。」と答えると、リベカはベールを取り出してそれをかぶりました。イサクは母サラの天幕に彼女を案内し、妻としました。そしてリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得たと聖書には書かれています。僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告したと書かれています。教案に土佐嶺南教会の牧師をされている鍋谷仁志先生の文章が載っていました。素晴らしい文章でしたので、最後に引用させていただきます。「召使い(僕)は、主人アブラハムを故郷から連れ出した神さまがいままでも守ってくださったし、これからもずっと守ってくださると信じています。ですから、もっともふさわしい方を必ず見つけられると信じていたでしょう。しかし、それにしても、祈り終らないうちに実現するとは思っていなかったかもしれません。神さまの自分たちへの恵みがいかに大きいことか改めて思い知らされたことでしょう。私たちも、神さまを信じているつもりですが、神さまの愛や恵みが大きさを十分には信じ切れていないかもしれません。いや、どれだけ信じても、神さまの愛と恵みの方が、いつだってはるかに大きい。だから、私たちは安心して信じて委ねていいのです。」
お祈りします。ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今日は、イサクとリベカの結婚について学ぶことができました。私たちは目先の不平や不満にばかり目が向き、神さまの恵みや愛の大きさに気が付かない存在です。しかも神さまが備えてくださるタイミングを待つことができず、不平や不満を募らせてしまうこともあります。そんな信仰の薄い私たちですが、今日の話で出てきたアブラハムや僕やリベカのように、神さまを安心して信じ、自分を委ねていける人生を歩ませてください。イエスさまのお名前を通してお祈ります。アーメン。