サウロのダマスコへの途上での,劇的改心に続く言行です。数日後には,かつての迫害者が,熱心な伝道者になって,伝道を始めたのです。
ダマスコ途上の件。一人の人間が全く無力にされたのです。我々自身とも無関係な事ではありません。主と出会う時、自らが頼みとして持っていた全てが崩れ去る。社会的な力や名誉,地位,財産。これらが全て無にされます。サウロは,一瞬にしてこれらを失いました。同時に聖霊で満たされました。そして元気になりました。直ちに伝道をはじめます。「この人こそ神の子だ」,「イエスは,主である」と大胆に語り,人々を驚かせたのです。このように語り得ることは,決して小さなことではありません。サウロも人々から,「あれは,イエスの敵対者だった男だ」と言われました。その通りでした。聖霊がサウロを,このように変えたのです。寺島牧師自身も,同様な体験をしています。4代目の牧師ではありますが,決してその成り行きで,牧師になったのではありません。かつては,自分の自由な意思で思う通りに生きたいと願っていたのですが,大学1年生の時に,倍仰告白に導かれました。「イエスは主なり」と告白出来たのは,多くの人々の祈りによるものだと,最近,確借を新たにするようになりました。
さて,ユダヤ人達は,サウロを殺そうと諮りました。サウロは、身の危険にさらされました。ユダヤ人達は,昼も夜も町の門で見張っていたとあります。結局,心配した彼の弟子達が,彼を安全な場所へ逃がして,事なきを得ましたが,サウロ自身札 ますます信仰を強められて,主の福音を述べ伝えました。ガラテアの信徒への手紙(2章20節)には,「最早われ生くるにあらず,キリスト我が内に在りて生くるなり。」(文語)とあります。これを書いた使徒パウロ(サウロ)の心中を,ある聖書学者は,「キリストがサウロの中に誕生したのだ」と述べています。我々の信仰に関しても,「イエスは主なり」との告白に導かれるならば,我々の中に,キリストがお生まれになったのだと,言えるでしょう。つまり,キリストが我々を支配して支えて下さるということ,我々はキリストのことのみを考えるようになることです。
去る3日に天に召された,野村忠規牧師は,深刻な病いの床にあって,「ベッドの下で,主が支えていて下さるから,うれしい。」と述べられ,この言葉に信子夫人が励まされた,と聞きました。パウロが,よみがえりの主が今日も生きておられ,罪の赦しと愛が,心の根底の喜びとなっていることを証したことと一致するのです。
磯村滋宏