創世記18章20~28節
ある、暑い日、アブラハムさんのところに3人のお客さんが来ました、アブラハムさんについては先週学びました、アブラハムさんは、全知全能の唯一の神さまに呼びかけられた最初の人で「信仰の父」と呼ばれています、神さまは、アブラハムさんを祝福の源とし、地上のすべての人が、アブラハムさんによって祝福されるという約束をされました、
そんなアブラハムさんのところに来た3人のお客さんのうちの一人は、なんと神さまでした、神さまと二人の御使いがお客さんでした、
アブラハムさんと妻のサラさんはご馳走を作って、神さまと二人のお客さんを心からおもてなししました、アブラハムさんの時代では、旅人を丁寧におもてなしすることは、神さまからのご命令だったそうです、だから、アブラハムさんもサラさんも神さまに正しく従い、この3人のお客様を、心からおもてなししたのでした、
ところが、ソドムとゴモラという町の人たちは、この神さまの命令を守りませんでした、神さまに背いていました、ソドムとゴモラを訪ねて、ひどい目にあわされた旅人たちからは、神さまのところにたくさんの訴えが届いていたそうです、それで神さまは二人の御使いを連れて、ソドムとゴモラの町の様子を調べるためにおいでになったのでした、神さまはアブラハムさんに言いました、「私はソドムとゴモラの人たちの罪をさばいて、町を滅ぼすつもりです、」と、この神さまが、ソドムとゴモラの様子を調べに来られた場面から考えられることは、神さまは、怒りに任せて、裁きを与える方ではないということ、ご自分に届いた訴え、人々が助けを求める叫びが本当かどうか、ご自分の目で確かめる方だということです、
アブラハムさんは、神さまの前に立って言いました、「正義の神さま、あなたは正しいものを悪いものと一緒に滅ぼされるのですか?あの街に正しいものが50人いるとしても、それでも、それでも滅ぼされますか?正しい50人の者のために、町をお赦しにはならないのですか?」
そこで、アブラハムさんは、「私は神さまの前に出て意見をいうような資格のないものですが…」と言いながら、「では、正しい人が45人では赦されますか?」と聞きました、すると神さまは、「正しいものが45人いたら滅ぼさない、」と答えられました、それを聞いたアブラハムさんは、また「では、正しいものが40人では赦されませんか?」というように、正しいものの人数をどんどん少なくしていきながら、神さまに聞きました、最後のほうには、とうとう「神さま、もしかしたら正しい人は10人しかいないかもしれません、」と、アブラハムさんが言いました、本当は、正しい人なんていなかったのです、
神さまはどう答えられたでしょう、「正しいものが、たった10人しかいなくても、その10人のために、私はその町を滅ぼさない、」と、約束されたのでした、神さまは、何でも優しく赦してくださる方ではありません、罪を犯した者に対して、厳しく責任を問われる方です、それと同時に、すべての人に対して公平に平等になさる方、本当に正しいお方なのです、だから、信頼できる存在、心を通わせて対話ができる存在です、
神さまが心を通わせて対話できる方ということが、今日の聖書から分かります、神さまはアブラハムの言葉をお聞きになっています。訴えに答えておられます。そのように、私たちひとりひとりとも交わりを持とうとしてくださる方なのです。
神さまは、罪びとを裁き、滅ぼされる方ではありません。今日の聖書では、ソドムとゴモラでひどい目にあわされた人々の助けを求める叫びに応えようとされたのです。神さまは罪人の死だって喜ばれません、罪人には、神さまに立ち返って、神さまの方を向いてきてほしいと望まれる方です。そのために、神さまはイエスさまを世に与えられました。イエスさまによって、神さまは罪である私たちを救い、祝福へと招いてくださるのです。
よく私たちはお祈りの中で「神さま、〇〇さんを祝福してください。」と呼びます。大人も子供も神さまの言われることに正しく聞き従えないことの多い私たちです。でも、そんな私たちといつも神さまは心を通わせて対話しようとしてくださっています。アブラハムさんの問いに神さまが耳を傾け、答えられたように、私たちひとりひとりの問いや訴え、ときには「助けてください。」という叫びに、神さまは必ず聞きこたえてくださると今日教えられました。そのような神さまのそばで私たちが守られ、生かされていることに感謝したいと思います。
祈ります。神さま、今朝も聖書のみ言葉を通して、神さまの大きな愛を教えていただき、ありがとうございます。いつも正しく、公平な神さまが、私たちひとりひとりを、分け隔てなく愛し、赦し、生かしてくださっていることに感謝します。私たちの思いに、神さまが耳を傾けてくださり、導いてくださっていることを覚え、今週もあゆみます。