「赦された者として生きる」
寺島謙牧師
マタイによる福音書5章21~26節
「人を殺すな」という戒めは、かつて神からモーセを通して与えられた「十戒」の6番目に書かれたものです。これは神の厳然たる戒めで,人間はそのように創られたのです。カインとアペルの間に行われた殺人以来、人類は,相も変わらず殺人を続けています。戦争をはじめとする幾多の殺人。さすがに弟子達の中に殺人者はいなかったでしょうが,しかし,殺人を犯さなければそれでよい,というわけではありません。主イエスは,さらにこのことを徹底して語られました。
兄弟に対して腹を立ててはいけない、バカ者と呼んではならない,というのです。きびしい戒めです。一切これに無関係だという人は,恐らくいないでしょう。少なくとも,心の中では。しかし人間は、聖なる神に向き合う者として創られたのです。だから互いに反感を持つようになった兄弟に対しても,何よりも先に,仲直りしなさい,と言われるのです。これがなかなか出来ない私達人間。これこそが「罪」。つまり我々を創られた神との断絶です。使徒パウロも,ローマの信徒への手紙8草9節で,「正しい者はいない。一人もいない。」と言っています。では,どうすればいのか。
私達は,赦していただかねばならない存在なのです。でも どこで赦していただくのか。それは,過ごとの礼拝においてです。神の御前では,何一つ隠すことは出来ません。心の中までも。だから神の御前にあって全てをさらけ出して,赦していただいた時,私達ほ本当に生きかえるです。そのためには、まず私達が互いに和解し,仲直りをせねばなりません。
相手が,私達の謝罪を受け入れてくれなくても謝罪をしなければなりません。何故なら,私達も赦された者だからです。古えのユダヤ人達は,その度に動物の犠牲を捧げました。しかし私達の罪の赦しは,そのようなものや,また人の努力行いなどで達成出来るものではありません。神のあわれみ,つまり,主の十字架のみが,これをなしうるのです。主は十字架を通して,私達を赦し,絶対に見捨てないと誇られるのです。
友と仲直りをすることは,場合によっては,非常に難しい事です。しかし主は,まずキリスト者である私達がこれを行わなければならないと語られます。マルコによる福音書10章27節では、金持ちが神の国に入るより,らくだが針の穴を通る方がまだ易しい,と言われ,驚く弟子達を前に,「人間にできることではないが,神にはできる。」と言われ,全ての人が救われることを明言されました。生きて働き給う神のカによって,私達も和解を実現出来るのです。