地の塩として生きる
塩と言うのは、不思議な存在です。当たり前のように私たちは使っており、それ自体は特別に喜ばれるものでも、目を引くものでもありません。しかし、なくてはならない存在であることも確かです。生命を維持していくためには塩分は必要不可欠、料理においても塩味がなくてはおいしくいただくことはできません。そんな存在になりなさいとイエスさまは言われます。
わたしは、15年ほど前に教会の門をくぐり、洗礼も受けました。そのきっかけとなったのが、挫折体験でした。精神的に病み、仕事にも行けなくなりました。昼夜逆転の希望のない生活の中で、教会の入り口にある説教題が目に留まりました。それまでは、幾度その前を通っても気にも止まらなかった説教題の文字がその時初めて心に引っかかったのです。
信仰というのは不思議なものです。思い悩んでいる時や苦しい状況に陥っている時に、神さまはいろいろな方法で、声を掛けてくださいます。ここで、私たち教会員が地の塩となるというのはどういうことか改めて考えます。
思い悩み苦しみに陥っている人は、塩を求めている人でしょう。笑顔をなくし、希望を失っている存在でしょう。もし、私たちが塩となり、その方々が笑顔が戻り、希望が芽生えるお役に立てればどれほどうれしいことでしょう。イエスさまは、私たちにそういう存在になるように求めてらっしゃるように思います。私たちは、特別に目を引く存在でも、周りの人から喜ばれる存在でもありません。どこにでもいる普通の人です。でも、塩を求めている人が周りにいることに気が付けば、イエスさまのことをお伝えしたいと思います。イエスさまに救われた者として、その体験をお伝えできれば幸いです。