先達の信仰に学ぶ

 先日、敬愛する本教会の信徒であるMさんが、天に召されました。Mさんは、重い病を患っておられましたが、ご自宅から教会まで、いつも歩いて通われ、毎週の礼拝を守られていたお姿が心に残っています。決して楽ではなく、たいへんな困難を伴う徒歩での通いの道であったと思われますが、そんな困難に立ち向かい続けたMさんを支えていたものは何なのでしょう。「歩いて通うのは大変」「こんな暑い日は家で休んでいたい」そんなに思うのが普通だと思います。そんな思いを振り切り、教会まで彼女を導かれ続けたのが、神さまへの「信仰」なのでしょう。「信仰」の持つすごい力に驚かされます。

 今週の説教では、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」というマタイによる福音書5章10節のみ言葉について説教を受けました。キリスト者は時として迫害を受けることがある。キリスト教の歴史をたどれば、明らかな事実です。しかし、私たちは、神さまのことを義(=正しいこと)と信じて生きることによって、その信仰により「義」とされます。その「義」のためならば、私たちは、迫害や苦しみに遭っても耐え忍んで生きていく力が神さまから与えられるというのです。

 最期まで神さまを「義」と信じて生を貫かれたMさんの信仰に私たちは学びたいと思います。そして、Mさんが天に召されて、イエスさまのもとで安らかに私たちを見守ってくださっていることを信じたいと思います。そして、深い悲しみの中にあるご遺族の上に、深い慰めと励ましがありますように、心からお祈りをいたします。