聖書 ルカによる福音書22章14〜23節
14.時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
15.イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
16.言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
17.そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
18.言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
19.それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
20.食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
21 .しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22.人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
23.そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
みなさん、今日の聖書の箇所でみなさんは何を思い浮かべますか。
礼拝で行われている、聖餐式。今日の場面は聖餐式の発端ですね。ドラマティックな場面で、レオナルドダビンチがこの一瞬を切り取っています。有名な「最後の晩餐」です。
わたしは、イタリアのミラノを旅したとき、この絵の飾ってあるサンタマリアデッレグラッツェ教会に行ってみたかったのですが、当時、修復中で見ることかないませんでした。
そこで、ダビンチの「最後の晩餐」についてサイト調べてみました。
「最後の晩餐」を見るには、現地に行く必要があります。持ち出すことのできない壁画だからです。修復後もなお、2段階の入室や、人数制限など絵の劣化を進ませないための工夫がなされています。
この絵は、生まれながらにとても劣悪な環境にありました。レオナルドが、壁画に適したフレスコ画という技法を取らず、表現の自由なテンペラ画を採用したことにありました。絵は、壁からの湿気に耐えることができず、描かれた直後から、状態が悪くなっていったと伝えられています。
壁からの湿気に加え、描かれた場所が食堂だったことから、料理から出る湯気などが壁画を傷つけていきました。大洪水によって水浸しになったことがあったり、ナポレオンの時代には食堂が馬小屋として使われたために、排泄物から出るガスが作品をさらに傷めたようです。そればかりでなく後世に行われた修復がうまくいかなかったため、作品の状態はさらに悪くなっていきました。最大の危機は、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の建物が、第二次世界大戦の砲撃によって崩壊したことでした。貴重な作品を失っては大変と危険を感じた修道士によって、絵の前に土嚢が積み上げられ、壁の崩落だけは奇跡的に免れたのですが、建物が再建されるまで、壁画は屋根もないようなところに置かれていたそうです。
のちに建物が再建され、「最後の晩餐」の本格的な修復が1977年から1999年にかけて行われました。実際には汚れの除去と、後世に加えられた絵の具の除去作業だけでした。失われてしまったところは、あえて筆を加えることなくそのままなのだそうです。それを修復家ピニン・ブランビッラさんが、22年かけてひとりで行いました。なんと綿棒で1㎠ずつやっていったのだとか、4.2m×9.1mの大画面なんですよ。なんとも気の遠くなるような作業です。
さて、この絵は、今日の聖書の箇所のある部分を描いています。それは、
21 .しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
この瞬間の、ざわめきです。
23.そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
議論をはじめた瞬間です。
さて、こうして「互いに議論をする」ということは、議論されるべき対象が、まさか「自分とは思っていない」ということを意味しているのではないでしょうか。
犯人探しをする前に、誰もが、
わたしこそが、その「まさにそれ」であることを思いもしません。
聖書を読むという体験は、この「最後の晩餐」という絵の登場人物と、そのたどってきた運命と、その後の修復に似ているところを感じます。
わたし自身も、この絵の中の人と同じように自らの罪に苦しみ、この絵の辿る運命のように生きていく中で様々な危機に瀕しては傷つくこともあります。
それは、神様によって造られた私たちが天国に行くために必要なイエスさまの血による大修復作業であると言えるかも知れません。
聖書は、私たちが神様に非常に深く愛されたために、イエスさまの十字架という犠牲の上に生きていることを伝えています。聖書は、人間の愚かさとそれでも見捨てず愛を示してくださる神様と人との関わりが描かれています。
15.イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
願っていた・・・という言葉に重みを感じます。イエスさまが仰ったこの言葉に、わたしは忘れてはならない大切なことが隠されているような気がします。
なぜ、最後の晩餐が「過越の食事」である必要があったのか、過越の歴史は遠く何千年前の聖書では出エジプト記(12章)までさかのぼります。イスラエルの民がエジプトで奴隷となって苦しんでいた当時に、初子の死という恐ろしい裁きがエジプト全体に起こりました。神様がモーゼに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じて、その教えに従ったイスラエルの民だけが神様の裁きを逃れることができた。つまり、禍(わざわい)が過ぎ越したことが始まりでした。
そして今を生きるわたしに、この「議論をしている弟子たちの姿を通して」神様が示してくださった「わたしの過越」とは何か、考えることができました。
禍が過ぎていったのは、わたし自身の問題について、であったのだ。
イエスさまは、このわたし自身の問題のために、わたしの戸口にイエスさまご自身の流された血を塗っていってくださったのだと気づくことができました。
かつて、小林秀雄さんという評論家がこんなことを言っていたそうです。
「聖書は、問題の人間について書かれているのではなく、人間の問題について書かれているのだ」と。
聖書の登場人物の誰か一人の人を指してハイこの人が問題の人です。といった他人事ではなくて私自身に示された問題であるのだと受け止めなければならない。そう、私は解釈しました。
私たちは、この聖書を通して、その問題について考える機会を与えられます。そして、考えることで神様の愛を深く感じ取ることができます。
実際、わたしもこの教会学校のお話の準備をしながら聖書を読むことの大切さをまた一つ学ぶことができました。
聖書を通して、イエスさまと出会えますように。