マラキの主の預言

マラキ書3章19~24節

今日の聖書の個所は、旧約聖書の最後に位置している「マラキ書」になります。私は、今日お話をさせていただくにあたって、初めてこのマラキ書を読みました。6ページちょっとの短い書なのですが、今まで目にすることのなかったこの書がいつの時代に書かれたものなのかということを調べてみました。
すると、マラキ書は、紀元前400年ころのことが書かれている書であることが分かりました。この時代の前に、イスラエルの国は、バビロニアという大きな国に滅ぼされ、住んでいたイスラエルの民は無理やりバビロニアに連れていかれ、そこで捕らわれの身となって70年間、住まわされました。一部の優秀な人は、バビロニアの王さまから大事にされたようですが、ほとんどの人は、奴隷のように、十分な食べ物も着物も家も与えられず、厳しい仕事をさせられて、つらい毎日を過ごしてきたのだと思います。これは、イスラエルの人たちが、神さまから離れ、神さま以外の神を信じて生きようとしたことに対する罰でした。神さまは、イスラエルの人たちが自分のことを思い出し、神さまのところに帰ってくるようにするために、このような試練の中に民を置いたのでした。しかし、神さまは、そのような民を放ってはおかれませんでした。70年という長い年月はかかりましたが、イスラエルの人々は、故郷に帰ることが赦されたのです。故郷に帰った人々は、破壊されていた神殿を建て直しました。そして、礼拝を捧げ、新しい気持ちで神さまを大切にする生活を送っていたのです。
しかし、その新鮮な気持ちは、平和な時が続くと、だんだんと薄れてきたようです。周りの国から攻められたり支配されたりすることはなくなったのですが、人々の心が、また、だんだんと神さまから離れて行ったのです。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても何の益があろうか。むしろ、我々は、高慢なものを幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」ということが、先ほど司会者の先生に読んでいただいた個所の直前に書かれているのです。ここからは、悪がはびこっていて、神さまを軽んじている世の中の状態があらわされているように思います。また、このよくない状態は、リーダー的な存在である祭司にも及んでいました。こんな時にこそ、皆に忠告をして、建て直さなければならないはずの祭司が、礼拝を軽んじていると言われるのです。当時の礼拝では、若い雄牛やオスの子羊、オスの山羊、鳥などがいけにえとして神さまに捧げられていたそうです。身分によっていけにえの違いがあったようですが、いずれも一番高価で、大切なものを捧げていたのです。しかし、この当時の礼拝では、盗んできた動物や、足に傷のある動物、病気の動物などがささげものとされていると、神さまがマラキの口を通して言われているのです。神さまは、それらのけがれた捧げものを快く受け入れることはできないと言われるのです。礼拝は行われているのだけれども、その礼拝に心がこもっていない、神さまを本当に敬う気持ちが感じられないという神さまの怒りや悲しみが分かります。
ここを読み進めていると、私も、自分のこととして考えざるを得なくなりました。神さまを心から敬い、神さまに喜んでいただけるような礼拝への参加ができているでしょうか。今の礼拝では、いけにえという捧げものこそありませんが、神さまへの感謝の気持ちを本当にもって礼拝に臨めているのか、と問われると、考えこまなければならない心の乱れがあるように思います。先ほどもお話しましたが、「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても何の益があろうか。」という気持ちがどこかにあるのです。確かに、神さまに礼拝を捧げ、神さまに感謝の祈りを捧げても、すぐに願いが叶うわけではなく、いいことが起こるということもありません。逆に、礼拝中にほかのことを考えたり、魔が差すようなよくないことを思ったりしても、すぐに罰せられるわけでもないのです。だから、何の益があろうかと考えた当時のイスラエルの人たちと自分は何ら変わりはないように思われます。私たち人間は、きっと神さまから与えられている測り知れない大きな恵みに慣れてしまうと、そのありがたみを忘れてしまって、与えられていないと感じている一部のことに対する不満ばかりに心が占領されてしまうのでしょう。私もそうです。自分にはあれができない。これもできない。あれが与えられない。こんな願いも叶わないと、人と比べたり、欲におぼれたりして、神さまから与えられている恵みに心から感謝して、それを態度として示すことがむずかしい。特に、マラキの時代のように、捕囚という苦しみから解放され、平和になった時にこそ、陥りやすい心の腐敗、腐っていく状態であると思います。

しかし、先ほど読んでいただいたマラキ書の最後のところには、そんな罪をもつ人間に対して、滅ぼすようなことはしないよという神さまの愛の言葉が示されています。神さまは、預言者エリアをあなたたちに遣わすとおっしゃいます。エリアによって、私たちの心は、神さまの方に向き直り、神さまから愛される存在になるというのです。この預言のあと、ヨハネが現れました。ヨハネは最後の預言者と言われていますが、私たち人間に悔い改めを求め、神さまの方に向きを変えることを示しました。そして、その後にイエスさまが来られることを告げました。そして、イエスさまの十字架によって、私たちは、私たちの力ではどうしようもない罪を赦され、神さまに祈り、礼拝を捧げることが赦されているのです。

このマラキ書は、旧約聖書の最後に位置しており、新約聖書との橋渡しをしていると解説書には書かれていました。旧約の時代にも新約の時代にも、そして今もですが、人間は罪から逃れることができない存在です。世の中では、今も戦争が続き、人間が人間の命を奪うという神さまを悲しませる出来事が毎日起こっています。心を痛めるような事件や事故も毎日起こります。また、自分のことを振り返っても、周りの人を傷つけてしまったり、良くないことを考えたり、当然しなくてはならないことを怠ったり、罪から逃れることができない人間であることを思い知らされます。
だからこそ、私たちは、日々祈り続けなければならないのでしょう。イエスさまの十字架での死は一度きりの出来事ではないはずです。イエスさまは、日々私たち人間のために十字架にかかり、私たちの罪が赦されるように、神さまへとりなしの祈りを捧げてくださっています。ですから、私たちもイエスさまに祈り続けなけらば、なりません。自分に罪があれば、その罪を正直に打ち明け、赦しを求めなければなりません。また、戦争が一日も早く終わり、人々が苦しみや悲しみ、不安の生活から解放されますように、また、悲しみが癒されますように、祈り続けなければならないと思います。神さまは、このマラキ書で約束してくださっています。「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽を昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」その言葉を信じ、祈り続ける生活、祈り合う生活を大切にしていきたいと感じた今日のお話でした。

最後に一言祈ります。
ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今朝は、マラキ書について学びました。神さまは、この世界のものを一つ一つ創り出し、今もそしてこれからも支配されている存在です。その大きな恵みの中に、私たち人間は生かしていただいていることに感謝し、神さまを心から礼拝し、感謝の祈りを捧げながら、誠実に自分に与えられた道を歩んでいけますように、どうか私たちの信仰をお支え、お守りください。この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。