詩編 第1章1節′)6節(2節)>
<話>
今日の聖書の箇所には、懐かしい思い出があります。
2008年12月、私の誕生白の夜に当時の牧師先生から電話がありました。
「もしもし、野村ですが、今日はあなたの誕生日を、すっかり忘れていました。誕生日カードが間に合わないので、ミクシイにメッセージを送りましたので読んでください。」
誕生日、忘れてないやん、と思いつつ、ミウシイを開<とメッセージが届いていました。
「お誕生日おめでとうございます。
めったにない休息の時を十分楽しみ、再出発して下さい。
御言葉を-つプレゼントします。
「主の教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、
葉もしおれることがない」(詩編1、3)
松山城東教会
私はこの言葉をすぐに気に入りました。子どもの頃から讃美歌が好きで、今も昔もふとしたときに讃美歌のメロデイーが心に浮かび、よ<口ずさんだものでした。讃美歌が心の中に溢れると不思議と幸せな気持らになります。私だけではな<、たくさんの人がそう感じるのだな、と思うと嬉しい気持らでいっぱいになりました。
聖書の言葉や讃美歌を口ずさむと幸せな気持ちになります。
それはなぜなのでしょうか。
今日の聖書のはじめの、詩編1章1節は「いかに幸いなことか」ではじまります。
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は「幸い」だと書かれています。
「幸いな」は「祝福された」という意味でもあります。
「祝福」という言葉には、肯定される、受け容れられるという意味があります。
神さまが人間の全てを根本的に受け容れ、認めることを「祝福」といいます。祝福された人は、もはや、否定されることはありません。
聖書や讃美歌には、神さまの祝福のみ言葉があふれています。神さまから自分の全てを受け容れられ、肯定されたという実感が私たちの心を幸せにするのです。
そして、神さまに受け容れられ、祝福された人々は、人を祝福する者へと変えられていきます。
「あなたには生きる意味があるのだ」という実感を周りの人と分かち合う生き方へと変えられていくのです。
神さまの祝福のみ言葉は、清らかな川の水のように、流れています。
私たち一人ひとりは流れのほとりに纏えられた木です。もともとその場所にあったのではなく、意味があって流れのほとりの場所に植えられたのです。神さまのみ言葉をいつでも受け取ることができるようにと、わざわざ流れのほとりに植えられました。
この木は私たちの人生です。時が来れば花が咲き、実りの時を迎えます。流れのすぐ近くに植えられているので、葉もしおれることはありません。
この神さまのみ言葉を聞く場所が、教会です。私たらが今、教会にいるのにはわけがあります。自分自身には分からないけれど、神さまにとっては、大切な意味があるのです。私たちが、人生を幸せに歩むために必要な大切な言葉が今日も教会で語られています。それを聞くことができる私たちはとても幸せです。
いかに幸いなことでしょう。今、こうして教会に集まり、神さまのみ言葉を聞いている私たらは。私たち一人ひとりは流れのほとりに植えられた木です。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることはありません。私たちは、そのままで全て神さまから肯定され、受け容れられています。そして、私たちの人生には、必ず実りの時があるのです。
巡り来る実りの時を目指し、私たちに与えられた人生の道を、共に歩んでいきたいと思います。お祈りします。
<祈り>
天の父なる神さま。今朝、教会に集められ、共に聖書のみ言葉をきく時を与えてくださり、ありがとうございます。神さまは私たちの全てを受け容れ、祝福してくださいました。それを知った私たちはとても幸せです。この事せを、周りの人と分かち合って生きていくことができますように。私たち一人ひとりを導いてください。
この祈りをイエスさまのお名前を通して、おささげいたします。 アーメン。