ルカによる福音書 1章26~38節
今日のお話は、世界で初めてクリスマスの出来事を知らされた女性の話です。その人はマリアという名前の15歳くらいの少女でした。そのマリアさんは、すでにヨセフという人と結婚をする約束をしていました。中学校の3年生くらいの年齢の女の子が結婚の約束をしているって、今の私たちにはちょっと受け入れがたいのですが、当時の習慣ではそれは当たり前のことだったようです。その女の子が、夜、読書をしていました。本当のことはわかりませんが、多くの画家によって描かれた受胎告知をテーマとした作品では、読書をしている場面設定が多いそうです。私が想像してみても、天使が現れるのは静かな夜かな…、昼間には出てきそうにないな…それからマリアがしていたことは、自分の部屋で静かに何か読書か内職でもしていたのかな…それくらいしか想像できません。当時本があったのかな、自分の部屋があったのかな、それらについては、想像するしかないでしょう。このシーンを描いた画家の皆さんは、想像力をたくましく働かせて、大胆にこのシーンを描き出していますが、事実については、誰にもわかりません。
ある日、マリアは、天使ガブリエルから、驚くべき知らせを受けます。最初は、「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる。」という言葉でした。うれしい報せのようですが、いきなり「おめでとう。」とか「喜びなさい。」とか「主があなたとともにおられる」とか言われても何のことやらわからず戸惑うマリアに、ガブリエルは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と続けます。ガブリエルの言葉によると、神さまから恵みをすでにいただいたということであり、マリアがその恵みを受け入れるとか受け入れないとか自分が選択をする余地はないのです。それでも、自分が偉大な人の母親になると言われたマリアは、率直に疑問をぶつけます。「どうして、そのようなことがありえましょう。私はまだ結婚していませんのに。」この「ありえましょう」という言葉には、マリアの強い否定の気持ちが表れています。それは当然のことで、キリスト教の信徒以外の人が聞いたら、「キリスト教を信じている人はそんなことを本当に信じるの?」で終わってしまうことでしょう。しかし、マリアの身になって考えたら、事態は深刻です。婚約中の女性が身ごもるようなことがあったら当時の律法では死罪と定められていたのです。マリアが信仰心の薄い女性であったら、「あなたはいったい何者ですか。帰ってください。人を呼びますよ。」で終わってしまったかもしれません。しかし、マリアは、ここでこのガブリエルの言葉をさらに受け入れていきます。それは、驚くべき言葉でした。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる。」というものでした。この言葉は、理性的に考えると受け入れがたい言葉なのですが、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とその言葉を神さまから与えられた自分の使命として受け入れたのです。私たちも自分に備えられた道として、神さまが与えてくださった使命を受け入れて歩んでいる者ですが、このマリアに与えられた使命は、とても重いものでした。
どうして、マリアは、このガブリエルの言葉を受け入れることができたのでしょう。マリアの信仰心が厚かったからというだけでは納得ができません。人間の理性や判断や常識を超えた力がマリアに働いたから。ではその力とはいったい何なのでしょう。聖霊の働きと言われる神さまの不思議な力っていったい何だったのでしょう。そこまで来ると、行き詰まってしまいます。
話は別の方向にそれますが、私たちは、どうして教会に通っているのでしょうか。そのことにもつながっている問題なのかもしれません。私自身の体験でお話しすると、神さまがいらっしゃって、私自信を守ってくださっている。そのように確かに感じられることがある。だから教会に通っていると答えるしかありません。神さまやイエスさまは目には見えません。祈りをささげても、直接に応えてくださることはありません。しかし、確かに守ってくださっている、そのように感じる瞬間が幾度もあるのです。弱虫のわたしは、何か大きな出来事が待ち受けていると弱気になります。今日一日乗り越えられるかなとか、生きて家に帰ってこれるかなとか、弱気になることがあります。また、一日の生活の中では、一瞬一瞬の周りの人や環境とのやりとりがあり、判断を誤ったなとか、失敗したなとか感じることも多々あります。しかし、正直に謝罪したら赦してもらえたとか、やり直したらうまくいったとか、間一髪助かったとか、そのような形でほっと胸をなでおろす経験が毎日のようにあるのです。そんなとき、私は、神さまが守ってくださっているということを感じます。
神さまがいるかいないか、教会に通う前のわたしだったら、そのような白黒をつけるような質問には、「いるわけがない、だって見たことも話したこともない。」という答えしか見つけられなかったでしょう。事実そうでした。無神論者と言われる人物だったと思います。しかし、教会に通い、神さまについて学ぶうちに、神さまは信じる者の心のうちには必ずいらっしゃる、いてくださるということを信じられるようになりました。神さまのイメージを心の中に形作っていくのが信仰の歩みだと思います。しかし、一人で勝手に神さまを形造っては、みんなの考える神さまは一人一人違ったものになってしまい、本当の神さまとかけ離れたものになってしまいます。それで、私たちは、神さまについて正しく知るために教会に通い、毎週の説教を伺いながら、自分の心の中に神さまの姿を、存在を、一つ一つ刻み込んでいる、そんなに風に思います。
話をマリアに戻します。死罪になるような使命を受け入れたマリアには、その後もたいへんなことが続きます。しかし、夫のヨセフがそんなマリアを受け入れ、支え続けてくれました。聖書には記されていませんが、イエスさまの誕生までに、どれほどきわどい出来事、身に危険を及ぼすような出来事がマリアの周辺であったかについては容易に想像ができます。そしてイエスさまがお生まれになったのはベツレヘムの馬小屋でした。その後、エジプトまで幼子のイエスさまを連れて逃げていったこともありました。そして、成長されたイエスさまですが、十字架にかけられて、人々の罵声や中傷を浴びながら命を落とされたのです。それは、私たちの罪を贖うためであったことを私たちは教えられますが、マリアの身になって考えれば、到底我慢ができないような苦難の人生であったことは間違いないでしょう。しかし、そんなマリアの信仰の厚さから、イエスさまは誕生されたのです。もしマリアの信仰心が薄かったら、途中で信仰を捨ててしまっていたら、イエスさまは誕生しなかったかもしれません。そう考えると、イエスさまの生みの親、マリアさんの偉大さ、働きの大切さがよくわかります。
私たちも神さまから使命を与えられることがあります。神さまから、予期していないような境遇を与えられることもあるでしょう。自分の予定や設計が大きく狂わされるような辛い境遇に置かれたり、大きな試練を与えられたりすることもあるかもしれません。それをマリアのように受け入れることができるでしょうか。先週、千都子先生から、横田早紀恵さんのお話を伺いました。大変厳しい人生の道を歩み続けられていることを改めて知りました。しかし、その横田さんを確かに支えているのは、神さまなのです。私たちは、つらい状況に置かれたとき、「神も仏もあるものか」と思います。でも、そんな状況になった私たちを支え続けてくださるのが神さまなのです。以前小島先生から、「だれのせいでこうなった」という説教を受けました。その時に、「それは、本人が悪いわけでもなく、親が悪いわけでも先祖が悪いわけでもない。神さまの御業が顕れるためだ。」というイエスさまの言葉を話してくださいました。神さまは、つらい状況に陥った私たちを見捨てたりされることはありません。支え続けてくださいます。そのことを信じることの大切さを、今日のマリアさんの姿を通して学ぶことができました。
ろうそくの火が今日は一本だけですが、来週は2本となり、そして3本、4本と増えていきます。クリスマスに向けて、わくわくとして気持ちも膨らんでいくのですが、それに併せて、神さまを信じる信仰の心も膨らみ、そして確かなものになっていきますように祈り続け、自分の心を整えていきたいと思います。
最後に一言お祈りします。
ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今朝は、マリアさんの信仰について学びました。マリアの信仰の確かさや深さによって、救い主のイエスさまは、お生まれになりました。私たちの小さな信仰が神さまや聖霊の働きによって、偉大なものにかえられることを知りました。そのことを覚え、神さまから備えらた道を一歩一歩真摯に歩んでいくことができますように、どうか私たちの歩みと信仰をお支え、お守りください。この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。