列王記上8章27~34節
イスラエル王国の3番目の王となったソロモンという王さまは大変知恵深い人であると共に、人の話をしっかりと聞き分けて正しく裁いて、善と悪とをしっかりと判断出来る王さまでした。こんなことがありました。赤ん坊を持つ二人の遊女がソロモン王の所へやって参りました。この二人の遊女は同じ家で暮らしていたのですが、ある晩、一人の遊女が眠っている間に赤ん坊に寄りかかってしまったために赤ん坊が死んでしまいました。それで、もう一人の遊女が眠っている間にその人の赤ん坊と死んでしまった自分の赤ん坊を取り替えたのです。それに気付かずに朝を迎えたその遊女は、自分の赤ん坊が死んでしまっているので驚いて、これは私の赤ん坊ではないと言ってもう一人の遊女に自分の赤ん坊を返して貰うように訴えたのですが、相手は聞き入れません。それでソロモン王にこの生きている赤ん坊はどちらの赤ん坊であるかどうか判断してもらおうと考えてやって来たのです。王さまの前でも二人の遊女は互いにこれは私の赤ん坊だと言って譲りません。そこでソロモン王はこの赤ん坊を剣で真っ二つに裂いて、半分ずつを二人に分け与えてみてほどうかと提案しました。すると一人の遊女は「王様お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。絶対に殺さないでください」と懇願しました。一方の遊女は、王さまの言うとおり裂いて分けて下さいと主張したので、ソロモン王は、最初に絶対に赤ん坊を殺さないで、この人に与えて下さいと言った遊女に赤ん坊を返しました。このようにソロモン王は大変知恵に満ちた立派な人物でありました。
その知恵をソロモンにお与えになられたのは、神さまであったのです。ソロモン王はイスラエルの偉大な王でありましたが、ソロモンが何故偉大な王であったかというと、彼は神さまを信じ、神さまに信頼して生きた人であったからです。自分がこうしてイスラエルの王として働くことが出来るのは神さまが命じ、神さまが共に歩まれ自分に必要な知恵と力と生きる勇気とをお与えになられていることをいつも心に覚えて歩むことの出来た人であったのです。
そのソロモン王が神さまのために7年の月日をかけて大きなそして大層立派な神殿を建てたのです。そしてその神殿を前にソロモン王は神さまに向かってお祈りを捧げたのです。それが今朝の聖書に書かれていることです。ソロモン王がお祈りによって神さまに求めたことは、自分が建てたこの神殿に神さま御自身が臨んで下さり、ここに生きて働いて下さることでありました。ソロモンは知っていました。神さまが天におられ世界を治めるお方であって、地上にお住まいになられるようなお方ではないことを。ましてや人間が建てた神殿に神をお迎えすることが出来るはずはないことはソロモン自身、分かっていたことです。でも何故ソロモン王はこのように時と宝とを捧げて神さまのために神殿を建てたのかというと、天の父なる神御自身がどのようなときも我々と共におられる一緒に生きて下さることを願ったからです。28節のソロモン王の祈りはそのことを表しています。「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください」。神さまがいつでも共に歩んで下さり、私の叫び、私の祈りを聞いて下さるなら、どんなに辛いことや苦しいこと、悲しみや嘆き、恐れや不安があろうとも私は大丈夫です。あなたが共におられるのですから、私も、そして私が治めるイスラエルの民の生活も必ずあなたが守って下さることでしょう、ソロモン王はそのように神さまに祈り、是非、この神殿に生きて働いて下さるように求めたのです。
さらにソロモンはこう祈りました。「あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください」。ソロモンは王さまでありましたから人を正しく裁かなければなりませんでした。しかし幾らソロモンが王さまであってもソロモンも一人の人間です。人間は罪人ですから人を正しく裁くことは出来ません。そのことをソロモンは分かっていました。本当に人を正しくお裁きになられるのは神さまお一人の他にはおられない。そして神さまだけが人間を悔い改めさせて正しい道を歩ませて下さるただ一人のお方であることをソロモンは知っていたのです。
ソロモンは自分を含め全ての者が、神さまの前に立ち帰り、そして罪を赦して頂くために、祈ることが出来るように、この神殿に、神さま御自身が臨在して下さるように、イスラエルの人々を代表して、今こうして神さまに祈りを捧げているのです。
時代が過ぎて、ソロモンの建てた神殿は失われてしまいました。しかしソロモンの祈りはイエス・キリストによって実現しました。神さまは遂に私たちと等しい人間の姿を取って私たちの間に来て下さいました。それがクリスマスにお生まれになられたイエス・キリストです。イエスさまは私たちと天におられる父なる神さまとを結ぶために、あの十字架におかかりになって死んで下さったのです。そのイエスさまが三日目に延り、復活されました。そしてイエスさまは今も教会に生きて働いておられるのです。
教会の屋根には天に向かって十字架が立っているでしょう。十字架は天におられる神さまと地上に生きる私たちがイエスさまによって繋がっているしるしです。神さまはこのように教会をお建てになられて、そして私たちを教会に招いて礼拝を捧げることをお求めになられているのです。「私は必ずあなたと共にいる。だから恐れるな」、そう約束しておられるのです。教会は神さまが生きておられる所です。そしてこの教会で私たちは神さまと出会い、祈ることが許されているのです。その折りを神さまは聞いて下さっておられます。どうか日曜日に教会に出かけ、神さまから生きる力と希望を頂いて歩んでいきたいと思います。