サムエル記上3章1~14節
今日は、サムエルさんのお話です。今、学んでいる旧約聖書ですが、その中にサムエル記というのが、あります。上下に渡るお話で、サムエルさんという人が、聖書の中で重要な存在であることが分かります。サムエルさんは、預言者と呼ばれている神さまの言葉を人々に伝える役目を果たした人であると同時に、初めての王様「サウル」の誕生やその後に活躍する「ダビデ」にも深く関係をする人物です。そんな影響力のある人物が、どのようにして生まれ、どのように育っていったのでしょう。今日は、サムエルの誕生や子供のころのエピソードなどを中心にお話をしたいと思います。
サムエルのお父さんは、エルカナ。お母さんは、ハンナという名前です。お父さんのエルカナについては、「エフライムの山地ラマタイム出身のツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。」と書かれているとおり、今日のお話の舞台は、エルサレムの北にあったエフライムという国になります。そこに、シロという町がありました。その街について、ウィキペディアでは、次のように説明されています。「イスラエルのカナン占領作戦中は、ギルガルに司令部を置いた。しかし、作戦が終了した後は、シロに本営を移し、会見の天幕(幕屋)を立てた。この時からシロはイスラエルの宗教と政治の中心になった。会見の天幕は、シロに安置されて、移動しなくなり、神殿が建設された。後に、「神の宮」「主の宮」と呼ばれた。後に、祭司エリ、サムエルが活躍した。」(ウィキペディアより引用)
サムエルのお父さんのエルカナは、毎年自分の町からシロの神殿に上って行き、万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていました。そのエルカナには、実は二人の奥さんがいました。一人がハンナでもう一人は、ベニナという人でした。二人も奥さんがいるなんて不思議に思うかもしれませんね。ユダヤでの習慣や律法の教えから推測すると、「ハンナに子が与えられていなかったので、さらにペニナを妻として迎えたのではないかと考えられます。」と大田原キリスト教会のHPでは説明されています。子どものできないハンナは、子どもに恵まれたベニナから、敵対され、つらく当たられました。ひどいことを言われたり、馬鹿にされたりしたのではないでしょうか。
ある年、シロの宮殿で、ハンナは、長い祈りを捧げました。あまりに長いので、神殿の祭祀をしていた「エリ」から、酔っぱらっているのかと勘違いをされ、酔いを醒ましてきなさいと注意を受けたほどでした。しかし、ハンナは酔っていたのではありません。この私に男の子を授けてくださいと一身に祈っていたのでした。エリから、「安心して帰りなさい。イスラエルの神があなたの願いをかなえてくださるように」と励まされ、ハンナはやっと元気を取り戻しました。
そして、ハンナの願いはかなえられました。男の子が産まれたのです。それが、サムエルでした。ハンナは、乳離れをするまでは自分のもとで育てましたが、自分で食事をとれるようになると、サムエルを主に捧げました。実は、これは、母親のハンナが神さまと約束していたことで、サムエルは生まれたらすぐに、祭祀エリに預けられて育つようになりました。おそらく3歳くらいのことではなかったかと言われています。しかし、その3年間が、サムエルの土台となりました。敬虔な母ハンナによって、サムエルルは、信仰と祈りに満ちた生活の中で、愛情をもって育てられました。将来に主のために用いられた基礎をしっかりと育てられたといえそうです。
ところで、祭祀エリに預けられるということはどういうことでしょう。母親のハンナや父親のエルカナと離れ、神殿の片隅で生活することになったのです。夜も神殿で寝泊まりします。真っ暗で広く寂しい神殿のどこかの場所が、サムエルに与えられたのでしょう。昼間は、祭祀のエリの見習いで、朝から一日中、神さまを礼拝する手伝いをしたり、神殿の掃除をしたり、食事の準備や片づけをしたり、神さまについて勉強をしたり、幼いサムエルにとっては、厳しい生活の連続だったことでしょう。お母さんのハンナに会いたい、甘えたいと思ったことも何度もあったことでしょう。遊びたい、わがままをいいたい、そんなことも何度もあったことでしょう。しかし、それは、赦されることではありません。神さまのもとで、ハンナに代わって今度はエリのもとで、教育を受けながらサムエルは育てられたのです。
エリには、実の息子が二人いました。しかし、その息子たちは、ならず者で、礼拝にやってきた人々の捧げものを奪いとったり、幕屋の入り口で使えていた女性とたびたび床を共にしたりしていました。注意をしても耳を貸そうとしない息子たちを苦々しく感じていたエリは、純粋で素直なサムエルに愛情を注いて育てたようです。サムエルが、10歳ころになったころのことでした。最初に司会の先生に読んでいただいた出来事がサムエルに起こりました。
ある晩、神殿にある自分の部屋で寝ていると、「サムエル、サムエル。」と自分を呼ぶ声がします。エリが呼んでいると思ったサムエルは、エリの部屋にとんでいきます。「お呼びになったので、まいりました。」と言ったサムエルに対して、エリは、「私は呼んでいない。戻っておやすみ。」と言いました。サムエルは、戻って寝ますが、再びだれかが呼ぶ声がします。エリのところに今度もとんでいき、お呼びになったので、まいりました。」と言ったサムエルに対して、エリは、「私は呼んでいない。戻っておやすみ。」とまたしても言いました。そして、同じことがもう一度起こった時、エリは悟りました。神さまがサムエルを呼んでいるのだと悟ったのです。それで、サムエル言いました。「もし、また呼び掛けられたら、「主よ、お話しください。僕は聞いております。」と答えなさいと教えました。
サムエルが、自分の部屋に戻って寝ていると、「サムエルよ。」と4度目の呼ぶ声がしました。サムエルは教えられたとおりに、「どうぞお話ください。僕は聞いております。」と答えると、主はお話を始められました。これが、サムエルが初めて神さまの言葉を聞き、預言者としての役割をスタートさせたときのことでした。まだ10歳の時のことでした。
話の内容は、恐ろしいものでした。エリの家を裁くというのです。息子たちが神さまを汚す悪い行いをしていることを知っていながら、それをどうすることもできなかったエリの息子たちを赦すことはできない、どんなことをしても贖われることはないという厳しい内容のものでした。サムエルはそのことをエリに話すことをためらっていましたが、エリに話すように言われ、正直に伝えました。エリも覚悟ができていたようで、サムエルから聞いた神さまの言葉をエリも受け入れたのです。
今日のお話では、少年サムエルに神さまが語り掛けられたということを学びました。ところで、まだ10歳前後の子どもであるサムエルが、神さまの呼びかけを聞き取ることができたのはなぜでしょうか。それは、ハンナという信仰深く祈り豊かな母親の願いを受け継いでいたということ、そして、エリという祭祀のもとでしっかりと神さまにつながる生活を行い、エリからだけでなく、神さまからも信頼を得ていたからではないでしょうか。そんなサムエルだからこそ、神さまから呼び掛けられ、エリを通してそれに気づき、神さまの声を聴くことができたのです。
実は、神さまは、私たちにも呼び掛けてくださっています。しかも、神さまは、サムエルの時のように、「○○さん」と私たち一人一人の名を呼んで、直接話しかけてくださるのです。あなたの名を呼び、あなたとお話したいと呼びかけ、返事を待っていてくださいます。しかし、私たちは、それになかなか気が付くことができません。サムエルでさえ、何度も聞き逃し、エリに教わった後にやっと神さまの呼びかけに気が付いたのです。神さまの声は、直接聞こえてくるものではないかもしれません。しかし、サムエルのように心を澄まし、祈りに満ちた生活を送っている者には、きっと聞こえてくるはずです。礼拝の時、説教の中で、また日々の祈りの中で、神さまは、私たちの名前を呼んで、語り掛けてくださっています。しかも神さまは、一方的に私たちに語りけるばかりをする方ではありません。私たちの返事を待ち、私たちの声も聴いてくださる方なのです。そのことを最も感じた経験を最後にお話しします。
わたしが、教会に来始めた頃のことです。当時の私は、いろいろなことがうまくいかなくて、自分は生きていていいのだろうかと真剣に悩んでいました。そんな時に、当時の野村牧師から、「あなたの罪は赦されています。生きていていいのです。」と話していただきました。心がとても軽くなりました。神さまはきっと自分の悩みのうめきを聴いてくださっていたのでしょう。まだ、洗礼を受ける前のこんな私の声も聴いてくださっていたのです。そして、野村牧師を通して、語り掛けてくださいました。その言葉が、私の信仰の原点になっています。そして、私は、それ以降もこうして生きていることを赦されています。
神さまから、語られる言葉は、うれしいことばかりではありません。今日のサムエルが聞いた話のように、耳を塞ぎたくなるような話もあるはずです。しかし、神さまは、それを通して、私たちが悔い改めることを待っておられるのです。どんな時も神さまを信じて、純粋な気持ちで神さまの声を聴こうとする少年サムエルの姿。その姿を心にとどめて、今週も自分に与えられた道を歩んでいきたいと思います。
最後に一言祈ります。
ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今朝は、神さまが、私たち一人一人の名を呼んで、呼びかけてくださる、話をしてくださる、そして私たちの話にも耳を傾けてくださることを知りました。そんな神さまにつながりながら、自分の人生を歩んでいける幸いを深く感じます。
自分の思いや考えを優先してしまおうとする罪深い存在の私たちですが、その罪を悔い改め、神さまに祈り、神さまの声を聴き求めながら生きていける者にさせてください。神さまを心から信頼して生きていける者になれますように。神さまから信頼していただける存在となれますように。この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。