ナジル人怪力サムソン

 聖書の中に「士師記」というお話がありますが、士師とは、どんな働きをした人のことなのでしょう。士師とは、中国の言葉で、「刑について統括している人」という意味があるそうです。聖書のもともとの語源によると、「シャーファト」(=裁く)。裁判人みたいな意味となりますが、普通の裁判人ではなく、特別な役割をもった立場の人のようです。聖書には、「主は士師を立て、略奪者の手から救い出された」と書かれています。リーダーとして、イスラエルの人たちを周りの敵から救い出した人。そのように考えるとよいでしょう。

 士師は、人間ですから、いつか死んでいきます。士師が登場してイスラエルがよくなります。しかし、士師が死ぬとイスラエルの人たちは、外国の神々を拝むようになり、堕落してしまいます。そしてまた、新しい士師が登場する。また、堕落する。その繰り返しが聖書には記されています。

 ところで、今日のお話に出てきたサムソンという士師は、神さまから選ばれ、特別な力を与えられた人でした。どんな縄でしばっても、簡単にといてしまう怪力の持ち主でした。そのサムソンに与えられた使命は、ペリシテ人からイスラエルの人を救い出す先駆者となることでした。しかし、サムソンは、女の人が好きで、外国の女の人を好きになってしまいます。自分の使命を忘れ、自分の気持ちだけで生きてしまったのです。そして、サムソンは、ついに神さまとの約束を破ってしまいます。それは、特別な使命を神さまから与えられたものは、髪やひげを剃ってはならないという約束でした。なぜなら、髪やひげに特別な力の秘密があるからでした。

 サムソンの愛人となった外国人のデリラという女性は、周りの人たちから、サムソンから彼の弱点を聞き出すように仕向けられます。サムソンは三度まではうまくごまかしましたが、とうとう髪やひげを剃ってはならないという秘密を教えてしまいます。寝ている間に髪を剃られたサムソンは力がなくなり、ペリシテ人に捕らえられ、目をえぐり取られて、牢に入れられてしまいます。サムソンをとらえたペリシテ人は、パーティを開き、その会場にサムソンを連れ出して、見せ物にしようとしました。その場で、サムソンは神さまに祈ります。「もう一度だけ力を与えてください。二つの目の復讐をさせてください。」と祈るのです。神さまはその祈りを聞き入れ、サムソンに再び力を与えられました。そして、サムソンは、柱を引き倒し、その会場にいた何千人ものペリシテ人を殺しましたが、自分も死んでしまったのです。

 ところで、今日の聖書のお話は、私たちに、何を伝えようとしているのでしょう。サムソンは最後にはたくさんの敵を倒したのですが、何千人もの人が死んだというのは、どうなのでしょう。神さまの正しさを伝えるためなら、なんでもしていいんだというメッセージとは思えません。実は、今日の話は聖書の中の一部分で、続きを読むと、またイスラエルの人たちは外国の神さまを拝むようになります。結局、本当の救いは来ていないのです。救いが来るのは、何千年も経ち、イエス・キリストが来た時なのです。

 私たちには、神さまのことを誇り、おごり高ぶった気持ちになるよりも大切なことがあります。サムソンは、神さまのことを忘れ、自分の好きなように生きました。神さまとの約束すら破ってしまいました。それでも、最後にお祈りをした時、神さまは、その祈りに応え、力をあたえてくださいました。私たちも、神さまのことを忘れ、自分の思いで生きてしまうことがあります。でも、そのことを悔い改めた時、神さまは力を与えてくださるのです。本当に自分のことを大切にしてくださる神さまであることを知ること、それが一番大切なメッセージであると思います。