出エジプト記34章1~10節
十戒は、これをしなければならないという命令でも、これを守ったら神さまは愛してくださる、救ってくださるということでもありません。神さまはまずイスラエルの人々をエジプトから解放し、救いの御業に与らせてくださいました。この神さまの救いの恵みに応えて、人々に喜びと感謝を持って生きて欲しいと神さまが願い、十戒を授けてくださったのです。人々は神さまの言葉をモーセさんから伝え聴きました。そして荒れ野での旅路をも守り導いてくださる主なる神さまのみを神として、従うことを約束したのでした。モーセさんは再びシナイ山へ登りました。神さまから詳しい約束の言葉を聴き、十戒を記した二枚の石の板を契約の印として授かろうとしていました。モーセさんは40日40夜、神さまとともに過ごし、その間、イスラエルの人々は神さまを信じてモーセさんの帰りを待っていました。
ところが、いつまでも山から下りてこないモーセさんに人々はだんだんと不安を抱き始めました。そこでアロンさん(モーセさんの兄)に「自分たちの先に立って導く神を造ってくれ」と詰め寄りました。待ちきれなくなった人々は、とうとう神さまとのお約束(第2の戒め:あなたはいかなる像も造ってはならない)を破ってしまったのです。アロンさんは人々の要求を聞き入れてしまいました。人々から金の耳輪を集めて火で溶かし、子牛の像を造り、これを神として拝ませたのでした。人々は金の子牛に捧げものをして歌い、踊ってお祭り騒ぎをしていました。自分たちに都合のよい偶像を造り上げ、自分自身を祭り上げて礼拝していたのです。
神さまは山の下で起こっていることをご存知でした。モーセさんに「すぐに山を下りなさい。あなたがエジプトから導いてきたイスラエルの人々が金の子牛を造って、それを神として拝んでいる」と言われました。神さまはイスラエルの人々を滅ぼそうと思われるほどにお怒りでした。神さまとの大事な約束を破った責任は大変重いのです。モーセさんは必死にとりなしながら、急いで山を下りました。山のふもとに近づいて大騒ぎしている人々を見聞きすると、モーセさんは怒りのあまり、手に持っていた神さまの約束が記された石の板を地面に叩きつけてしまいました。石の板も神さまとのお約束も元には戻せないほどに砕けてしまったのです。モーセさんは金の子牛を焼き払い、神さまに赦しを求めて祈りました。神さまとのお約束を軽んじて破ってしまう人々は、神さまの裁きは免れないものですし、神さまに見はなされ二度と約束などしないといわれても当然なのです。が、しかし神さまはどうされたのでしょうか。
神さまはモーセさんに「前と同じ石の板を二枚切りなさい、わたしはあなたが砕いた前の板に書かれていた言葉をその板に記そう」と告げました。モーセさんは用意して次の朝早くに山へ登りました。神さまはモーセさんのとりなしの祈りを聞き入れてくださったのです。罪深いイスラエルの人々ともう一度約束をして、十戒を石の板に記してくださいました。イスラエルの人々が破った約束を、神さまの方から元通りにしてくださったのです。神さまはイスラエルの人々がどんなに約束を破っても、神さまは一度結んだ約束を決して破ることはなさいません。罪を重ねる人々を何度もお赦しくださる憐れみ深いお方なのです。
今日も聖書は私たちに語ってくださいます。聖書のモーセさんのお話を通して、神さまがどんなお方なのか、神さまの真実に触れることができます。しかし神さまのことをすべて直ぐに理解できて、ずっと忘れずにいることができない私たちです。昔も今も、これからも、繰り返し神さまから離れてしまい過ちや失敗を犯してしまう人間なのです。が、神さまの私たちへの愛は変わることはありません。神さまは罪を重ねる私たちにイエスさまをお与えくださって、イエスさまの十字架によって新しい約束(契約)を結んでくださいました。私たちは罪によって滅ぶことなく罪を赦され、新しい命に生かされています。約束を破るような私たちにも、ただただ神さまは忍耐強く、罰よりもはるかに大きい憐れみによって契約を更新してくださったのです。
この大前提である神さまからの深い慈しみと恵みとを感謝して受け取り、これに応えて生きる生き方である十戒を改めて心に留めつつ、日々歩みたいと思います。