主の過越

出エジプト記12章21~28節

 8月7日の礼拝は、平和聖日礼拝として、守られています。77年前の昨日8月6日には、広島へ原子爆弾が落とされるという恐ろしい出来事がありました。今年の5月に修学旅行があって、広島の平和記念公園に行き、平和記念資料館を訪れました。
 建物の中では、原爆の被害の恐ろしさが生々しく伝わってきました。廃墟となった町の写真、原爆の熱や爆風によって半ば溶けており曲がってしまった三輪車、白血病となり祈りを込めながら鶴を折り、亡くなっていった少女のお話。一瞬にして信じられないほどのたくさんの人が命を失い、大切な家族や友人を失いました。
軍人も民間人も、高齢者も子ども、男も女も、みんな無差別に命を奪われました。そして、生き延びた人も、大切な人を失い、けがや放射線による病に苦しめられ続け、どの人の人生も変えられてしまいました。
 その様子を見たうちの学校の子どもたちは、みんな言葉を失ってしまっていました。普段陽気でおかしなことばかりして皆を笑わせるMくんが、ひきつったような顔つきで、展示物を見ていた姿が印象的です。笑いなどどこにもありません。にっこりとほほえむ笑顔すら失わせてしまう世界がそこにありました。
 そんな悲惨な出来事が人間の手によって人間に対して行われたということ、人間の罪の深さや大きさを思い知らされるしかありません。このような結果になることはわかっていたはずなのに、戦争という状態では、敵であれば人を殺し傷つけてしまうことが、許されてしまうのです。公然と認められるのです。私たちは、普段人を傷つけてはいけません。暴力をふるってはいけません。差別は許されません。そういう人権教育をかなりの時間を割いてしています。世間には、○○ハラスメントという言葉がたくさん生まれ、心の電話などのサポートもいろいろと行われ、一人一人を大切にするという意識は世間一般に浸透してきました。しかし、それらのすべてを無にしてしまうのが、戦争です。ロシアによるウクライナ侵攻では、目をそむけたくなる実態を毎日のように見聞きし、戦後77年たった今でも、ひとたび戦争が起これば、悲惨な状況は何ら変わることがないということを思い知らされる思いがします。

 前置きが長くなりましたが、今日のお話は、主の過ぎ越しというイスラエルが昔から大切に語り継がれてきた出来事についてです。イスラエルには、過ぎ越し祭とよばれるお祭りがあります。そのお祭りの時には、家族みんなが集まって、子羊を焼いて食べたのだそうです。そして、七日間の間、種なしパンという特別なパンを食べるようにと聖書に定められています。なぜ、そのようなことをするのでしょう。教会学校教案には、次のように説明されていました。お父さんが子供に語り掛ける形で紹介されています。

「それはね、むかし、むかし、わたしたちのおじいさんの、さらにまたおじいさんのおじいさんが生きていた頃、神さまがわたしたちイスラエルの民を救ってくださった、その大切な記念をするためなんだよ。わたしたちの先祖は、昔、エジプトに住んでいたんだ。エジプトの王は、わたしたちを奴隷にして、それはもうとても厳しく働かせたんだ。それで、わたしたちの先祖は、神さまに向かって、『助けてください』と叫びながら暮らしていた。
 すると、神さまはその声を聞いてくださった。神さまはモーセを通して、わたしたちをエジプトから救い出そうとお決めになった。そこでモーセが、エジプトの王の所に行き、イスラエルの民をエジプトから出て行かせるようにと、神さまのお言葉を伝えたんだ。けれども、エジプトの王は、何度言われても、神さまの言葉を受け入れなかった。それで、神さまは、最後に、おそろしい災いを起こすことをお決めになった。それは、エジプトに住んでいる人も家畜もすべての初子が死んでしまうというものだった。でも、その時、イスラエルの人たちは、神さまから特別な命令を受けたのだ。それは、小羊の血を、家の門の柱に塗っておくというものだった。そうすれば、神さまからのわざわいが通り過ぎる、と。こうしてわたしたちは、神さまによって、エジプトから救っていただいて、今こうして生かされているんだ。だから、毎年お正月に食べる小羊は、この神さまの救いの約束と出来事を記念し、神さまに感謝を捧げる、過越の小羊なんだよ」。
 先週、モーセの召命のお話を伺いました。モーセは、神さまから、イスラエルの人々を救い出す役割、命令を与えられました。そこで、モーセは兄のアロンとともに、ファラオと交渉をします。モーセが80歳、アロンはその時83歳だったと聖書には書かれています。アブラハムも召命を受けたのが75歳。神さまは、高齢になってものんびりと過ごすことを赦してくださらないのですね。死ぬまで役割を与えてくださる存在のようです。話がそれましたが、モーセは、神さまの言葉をエジプトの王ファラオに伝えます。しかし、ファラオは、まったく聞く耳をもちません。そこで、神さまは、ファラオの納めるエジプトの国中に次々と災いを起こします。ナイル川の水が血となり、魚がみんな死んでしまい、悪臭が国中に立ち込めて、人々は水を飲むことができなくなったという災いから、スタートしました。次が、カエルの災いと呼ばれるもので、ナイル川にカエルが群がり、家々に襲い掛かり、寝室や寝台にまで上り、かまどやこね鉢にも入り込み、人を襲うというものでした。そして、3度目がぶよの災い、4度目はあぶの災いというものでした。ぶよとあぶが国中に満ち溢れて襲うという災いですが、ぶよとあぶって何が違うのでしょうか。ちょっと気になったので調べてみました。まず大きさが、あぶの方がおおきいということです。ところがぶよは、集団行動をする。そして、ぶよは刺したときに毒素を注入するそうです。その毒素のせいで、赤く腫れあがってひどいかゆみが続くということ。その反面、あぶは毒は持たないのだそうですが、体が10倍ほども大きいので、刺すというよりも嚙むという表現がぴったりのようです。また話がそれましたが、ともかくそんな血を吸う吸血鬼が満ち溢れるなんて想像するだけで、ぞっとします。モーセはその災いの最中に、ファラオのもとに交渉に行きます。ファラオは、「あなたたちを去らせる。」と約束しましたが、あぶがいなくなると態度を一転させ、エジプトの民を去らせるという約束は守られませんでした。
 その後、疫病の災い、腫物の災い、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災いと続きます。しかし、ファラオは、結局イスラエルの民を去らせることはしません。

 このように次々と災いを受けながらも、イスラエルの民を手放さないファラオという王は、どういう人だったのでしょう。一言でいえば、懲りない人と言い切れそうです。しかし、災いの場面を読み進めるうちに、わたしは、次第に自分がファラオに見えてきました。聖書というのは、実に不思議です。何千年も前に書かれたものでありながら、今の人間の姿をそこに映し出しているのです。自分も懲りない人間です。またやってしまったという失敗を幾度となく繰り返します。その時は反省もするし、次はきちんとしようなどと思いますが、やっぱり同じ失敗を繰り返すのです。ファラオは、守る気のない約束をしたり、自分に都合のよい条件を付けようとしたりして、結局約束を守らず、いつまでもイスラエルの民に執着します。しかし、私たちも、同じく、お金に執着したり、名誉に執着したり、捨てきれない欲にがんじがらめにされている存在であり、ファラオと同じ罪にまみれた人間なのだと思います。

 いつもでも、イスラエルの民を手放さないファラオに対して、イスラエルの神さまは、最後の災いをファラオとエジプトに下すことを決断しました。それは、初子をうつという災いでした。初子というのは、一番初めに生まれた子ども。どの家族でも、そして家畜でも、一番初めに生まれた子はすべて死んでしまうという恐ろしい災いでした。しかし、イスラエルの家にだけは、その災いが起こることがないように、神さまはしるしを付けるように教えました。それは、子羊の血を家の門の柱に塗っておくというしるしでした。そのしるしがある家には、この災いが通り過ぎる、過ぎ越されるということで、過ぎ越しと呼ばれており、イスラエルの初子だけは、この災いから逃れることができたのです。自分の子どもも死んでしまったファラオもとうとうこの災いに降参し、イスラエルの民を解放することにしました。なんと430年という長い期間を耐え忍んだイスラエルの民は、とうとうエジプトでの奴隷生活から解放されたわけなのです。

 このお話について考えていて、強く感じたことがあります。それは、次々とファラオやエジプトの民をおそった災いが今も形を変えて起こっているのではないかということです。コロナ禍、ウクライナへのロシアの軍事侵攻、核兵器の存在もそうです。東日本大震災、そして、先日来も起こっている集中豪雨。異常な暑さ。また、ここ10年間で100万人もの小中学生が減ったというニュースの記事も衝撃的でした。それらを思い起こすとき、それらが災いとして、今の私たちに下されているような気がしてなりません。戦争が終わって77年。大政奉還によって武士の世の中が終わってから、まだ150年のちょっとしか経っていません。その間に、人間の生活スタイルが大きく変わり、地球の環境は大きくバランスを失ってしまいました。しかし、今から、生活スタイルをもとの姿に戻すということは到底できないことでしょう。

 これから、子どもの世代、孫の世代、そして何十年、何百年、何千年と人間は生き続けていかなければならないと思います。しかし、未来の姿を想像するとき、明るい展望よりもむしろ暗い気持ちにならざるを得ない状況が、今の世界にはあります。しかし、神さまは、イスラエルの民に過ぎ越しを与え、滅びから救い出してくださいました。その印になったのが子羊の血でした。傷もなく汚れもない小羊の血によってイスラエルの民は贖い出されたのです。
わたしたちは、イエス・キリストの血によって贖われている存在です。罪を赦され、滅びから免れている存在です。私たちの未来には希望があることを信じ続けたいと思います。しかし、自分たちクリスチャンだけが生き延びるということは到底できないことでしょう。地球の民、みんなが生き延びていくことしか、選択肢はないはずなのです。イエス・キリストの血によって贖われているものの使命。役割が、私たち一人一人にあるように思います。神さまの召命には、年齢の制限はありません。天の国に召される時まで、神さまの声に耳を傾けながら、神さまが私たちに使命として与えてくださっていることは何か、しっかりと聞き取りながら、神さまがよしと言ってくださることを行っていける自分であること。それが地球の世界の人間の未来につながっていくことと信じて、今日のお話を終わります。

最後に一言祈ります。
 ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今朝は、主の過ぎ越しについて学びました。イスラエルの民が主によって災いから過ぎ越されたように、私たちも、神さまに守られながら、命を全うできるものにさせてください。罪深い存在の人間ですが、その罪を悔い改め、未来を開いていくことができますように願います。そして、神さまに祈り、神さまの声を聴き求めながら生きていける者にさせてください。この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。