今日は「子どもの日・花の日」です。この行事はアメリカの教会で始まったもので、「子どもの日」と「花の日」の二つの行事が一つとなったものです。「子どもの日」は、一八五六年六月(165年前)にマサチューセッツ州チエルシー市のレオナルド牧師が、子ども中心の特別な礼拝をしたことから始まりました。そして、一八六六年(155年まえ)にはメソジスト教会が六月第二日曜日を「子どもの日」と定め、子どもたちへの信仰教育を強調する日となりました。一方の「花の日」は、一八七〇(141年まえ)年に、やはりマサチューセッツ州ローヴエル市の会衆派教会で始まりました。「子ども日」の時期が一年で一番美しく花が咲く季節であったので、この日、教会員が花を持ち寄り礼拝堂に飾って礼拝をささげ、礼拝後、その花を子どもたちに持たせて、病院や社会施設を訪問したのです。こうして、「子どもの日」と「花の日」が一つの行事となり、宣教師によって日本の教会に伝えられたのです。
ところで、今日の聖書の箇所は、イエスさまが、手の萎えた人を癒される場面です。萎えるというのは、麻痺してしまい、手足が動かなくなることだそうです。脳の血管の病気のため、片一方の足や手が動かなくなったり、しびれて動きにくくなったりする病気は、今でもありますね。そのような状態になったこの人は、すごく落ち込んでいました。今までは普通に動いていた足や手がしびれて思い通りに動かないのです。食事をすること一つとっても、お箸やスプーンを使って思い通り食べることができなくなるのです。歯で噛むことも今まで通りにはできず、飲み込もうとしてもうまくのどを通らず、むせてしまいます。周りの人が助けてくれなければ、何をするにもとても大変で、生きていくのが不安で、きっと希望を失っていたことでしょう。
その人のもとに、ことば巧みに誘い掛ける人がきました。「あなたは、イエスという人を知っているか。この人は、病気を癒すことで有名になっている人だ。明日は、会堂にイエスがやってくる。あなたもそこに行って、治してもらわないか。」そのように誘ったのです。手の萎えた人は、もちろん行くことにしました。有名なイエスさまなら、私の手を元に戻してくださるかもしれない。そのように考えるのは当たり前のことですよね。
しかし、誘い掛けた人には仲間がいて、その人たちには、別の考え・たくらみがあったのです。その人たちは、ファリサイ派と呼ばれる人たちでした。ファリサイ派の人たちは、律法というきまりを忠実に守っている人たちでした。律法には、安息日(礼拝の行われる日のことで、日本では日曜日が当たります。)には、仕事をしてはならないと定められています。神さまは、天地を造られた時、6日間でその仕事を完成され、7日目に休まれました。そして、お休みされた7日目を安息日として、聖別されたのです。モーセの十戒でも、4つ目に安息日の規定があり、何もしてはならない。神さまの前に集い、祈りを捧げなさい。ということが定められています。
その安息日に、手の萎えた人を連れてきた人たちは、イエスさまがどうするかをじっと見ていました。もし、手の萎えた人を癒されたなら、安息日の何もしてはならないという規定を破ったことになります。きまりを破った人として、訴えることができると考えていました。また、癒さなかった場合にも、イエスさまは、困っている人、苦しんでいる人を助けない冷たい人だというように悪口や陰口をいうことができるのです。どちらにしてもうまくいく。そのように考えていたのです。
イエスさまは、そのような状況の中で、どうされたでしょう。先ほど聖書で読んだように、手の萎えた人を癒されました。それも、みんなの見ている会堂のまん中に手の萎えた人を立たせ、みんなに目の前で堂々と癒されたのです。私たちが考えたら、当たり前と感じるかもしれません。しかし、その時のイエスさまには、とても勇気のいる行為であったことはまちがいありません。なぜなら、この会堂に集まっているのは、ユダヤ教の信者で、みんな律法を守りながら生活している人たちだったからです。この日の仕事はみんな休み、どんな急ぎの用がある人も、この日だけは、その仕事を置いて、神さまを崇め、礼拝するために会堂に集まっていたのです。そこにいた人たちは、イエスさまがこの日は、癒しをされることはないだろうと思っていたはずです。今日はここに来ても無駄だよ。明日、出直してきたらどうだい。そんなに考えていたかもしれません。一方、このたくらみの中心にいた人たちは、イエスさまのちょっとした行動も見逃さないように、イエスさまを注視していたと思われます。周りの人に気付かれないように癒しをするかもしれない。会堂の隅に連れて行って癒しをするかもしれない。どんな些細なしぐさも見逃すな。そんなに考え、まさにイエスさまがどう動くかを見張っていたはずなのです。
しかし、イエスさまは、そんな会堂の人たちを驚かせる行動をされました。先ほどお話したように、逃げも隠れもしませんでした。会堂のまん中で手の萎えた人を立たせ、こういわれました。
「安息日に立法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と、周りにいた人たちに、問われたのです。その声は、表情は怒りに満ちていました。なぜなら、イエスさまには、全てがお見通しだったからです。一部の自分に悪意を持つ人が、この手の萎えた人を誘い出したこと、そして、自分が律法を破って癒しを行うかどうかを見張っていること、そしてもし、律法を破ることがあれば、自分は神さまの約束を守らない人としてひどい目にあうであろうこと。それらをすべてお見通しだったのです。
イエスさまの怒りはどこにあったのでしょう。自分を陥れようとしていることに対する怒り。もちろんそれもあったかもしれません。しかし、イエスさまの一番の怒りは、手の萎えた人をあたかも道具と同じように扱ったことに対してありました。心を持つ人間を、心を持たないただの道具として扱い、自分たちのたくらみのために利用したことにあったのです。もし、この人が、この日、イエスさまに癒されなかったなら、この人はどれほど失望したことでしょう。勇気を出して会堂に足を運んだのに、恥をかいただけで、イエスさまは何もしてくださらなかった。きっと生きる望みを完全に失ってしまったことでしょう。また、自分が巧みに誘い出され、イエスさまを陥れる道具として使われたことを知ったとしたら、周りの人間はだれも信じられないという思いになってしまったことでしょう。この手の萎えた人というのは、人格をもつ一人の人間だったのです。その人格をもつ一人の人間を大切にするということが、神さまの御心のはずです。しかし、その人を自分たちのたくらみや欲望のために利用した一部の人の心にイエスさまは怒りを感じられたのです。
このお話は、いろいろな大切なことを私たちに教えてくれます。まず、きまりが人間より大切にされてはならいないということです。私たちにも守っているきまりがあります。社会のきまり、例えば道路交通法というきまりがあります。学校にも校則というきまりがあります。また、それぞれの家庭にもきまりはあるはずです。これらのきまりを守ることはもちろん大切なのですが、きまりを守るために、人間が大事にされないということがあってはならないということを教えてくれます。
また、人間は罪をもって生まれてきたということも教えてくれます。きまりが、時にみんなを守るためではなく、自分たち一部の人の利権(よい立場)を守るために使われるということがあるのです。このお話に出てきたイエスさまを陥れようとしたファリサイ派の人たちは、実にまじめに律法を守って生きてきた人たちでした。細かい約束を守ることで、神さまから救われると信じて生きてきた人たちでした。そこに現れたのがイエスさまでした。イエスさまは、時に律法を守られないことがありました。今日のお話のすぐ前にも、安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べたという出来事が記されています。そんなイエスさまが民衆から支持され、大人気となっているのです。我慢に我慢を重ねてまじめに生活している自分たちより、決まりを守らないイエスさまがみんなから信頼され、支持をされるのは面白くない。そうかんがえるのも、自分がファリサイ派の人であったら、当然かもしれません。私たち人間には、生まれ持った罪があります。それは、嫉妬であったり、ねたみであったりします。自分より幸せそうな人がいると面白くないのです。自分より人気のある人がいると面白くないのです。自分より能力の高い人がいると面白くないのです。自分の心を観察していると、そんな妬みやそれから、逆の優越感に浸っていることもあります。この人よりはましだとか自分の方が勝っているとか、また人が不幸にあるとその人を見てうれしくなったりする感情があります。これらは、人間が生まれもっている罪で、自分で気を付けていても、ふとした時にふっとわいてくることがあるのです。
そして、もう一つ、イエスさまは、そんな私たちを癒し赦してくださるということを教えてくれます。イエスさまは、手の萎えた人の命、気持ちを最優先され、安息日であったにも関わらず、迷うことなく癒しを行われました。そして、「安息日に立法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と周りの人に問われました。一番大事にされなければならないのは、一人の人間の命であるということをはっきりとしめされたのです。誰も反論できませんでした。しかし、反論こそしませんでしたが、かれらは納得をしていないことをご存じでした。そんな頑なな心を悲しみながら、手の萎えた人に「手をのばしなさい。」と言われたのです。動くことのなかった手がその時、魔法にかかったように動き、手は元通りになったと聖書に書かれています。その人は救われたのです。しかし、その後、ファリサイ派の人たちはどのようにしてイエスさまを殺そうかと相談をはじめ、最終的に十字架にかけてしまいます。イエスさまは、そのこともすべてお見通しの上で癒しを行われ、その後、十字架にかかられて、頑なな心から解放されることのできない私たち人間を許してくださいました。先週のCSの礼拝で、「だれでもときどき怖い顔になることがあります。そんなとき、イエスさまは、一緒に行きましょう。天国に行きましょうとさそってくださいます。だから、私たち人間は安心して生きていいのです。」というお話がありました。そんな神さまの恵みは、だれにも平等に与えられています。隣人を自分と同じように大切にすること。それが神さまの一番喜ばれることであることを心に覚えて、今週も生活していきたいと思います。